愛の証し
2026年9月13日
申命記15:1~11、コリント二9:1~11
関 伸子_牧師
コリントの信徒への手紙二の第9章は、「聖なる者たちへの奉仕について」と書き始めています。これは、第8章ですでに繰り返して語れていました。パウロがエルサレムのキリスト者の窮状を救うために愛の慈善献金を推し進めていることが8章に書かれています。
コリントの教会の人々にとって、愛の慈善献金は「それが、昨年以来、自ら願ってこのことを始めた、あなたがたの益になるからです」(8:10b)ということでした。しかも、パウロはコリントの教会の人々の熱意を知っており、「その熱意について、私は、アカイアでは昨年からすでに用意ができていると言って、マケドニアの人々にあなたがたのことを誇りました」(9:2b)と語ります。
コリントの人々たちの熱心は、多くの人を奮起させたのに、実際はそれが中断されたままになっているとか、見通しが立っていないなどということがあちこちに知れ渡ったら、パウロもコリントの人々も恥をかくことになります。このような時に、実は、途中でやめて、暗礁に乗り上げた格好であることが分かったら、コリント教会もパウロも物笑いの種になり、マケドニア人たちのあの熱心にも水を差すことになってしまう。
「そこで、私はこのきょうだいたちに頼んで先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した祝福の業を用意してもらうことが必要だと思いました。貪欲の業としてではなく、祝福の業として用意してもらうためです」(5節)。この1節から15節までのパウロの言葉のひとつの中心となっているのは、私は5節ではないかと思うのです。「祝福の業」と訳されている言葉がすでに同じギリシア語で言い表されているのですけれども、ここで、ギリシア語で発音してみると、「エウロギア」という言葉です。「エウ」というのは「良い」という言葉です。「ロギア」というのは「言葉」です。ですから直訳すると「良い言葉」という意味になります。誰かに良いことを語ってあげる良い言葉ということです。そのひとに「名誉を与える」という意味にもなります。何よりも信仰の世界においては、「祝福する」という言葉になります。また、贈り物は、祝福であります。贈り物を受けた人に、もし信仰があったら、その人はただ贈り物を受けたとは思わないでしょう。そうではなくて、それは、神が、祝福を与えてくださったものと考えるにちがいありません。しかし、それは受けた人だけではありません。贈った人も、そのことによって、自分が祝福を受けた、と思うにちがいありません。こうして、贈った人と受けた人は、共に神を賛美したでしょう。すなわち、贈り物は、賛美となるにちがいないのでしょう。
「惜しんで僅かに蒔く」という言葉がそれに対比されています。「渋りながらではなく、惜しまず差し出す」ということです。この「渋りながら差し出したもの」というのは、他の箇所にもよく出てくる言葉です。そのときにはむしろ「貪欲」と訳される言葉です。
「惜しまない」(フェイドマイ)は、神御自身の行為に対して用いられる言葉です。「御子をさえ惜しまず死に渡された方は」(ローマ8:32)と言われるように、神の惜しむことのない愛を表します。パウロは募金を要請する上で、神御自身が恵み深くあることを根拠にしています。「強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい」(7節)とは、献金額の問題ではなく心ばえによるということです。
献金もそうです。ですからパウロは7節、8節でこう言います。「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ちあふれる者となるのです」。原文では、「しなさい」という表現はありませんが、ここでは補われています。パウロのこれらの言葉は命令というよりは、むしろ、勧めであるので、「心に決めたとおりにしなさい」とは、「心に決められたとおりすることを勧めます」という意味です。献金は、喜んですることであり、また、自発的にすることなのです。
パウロは8節以下で、ささげる者自身が神の恵みにあずかり、ますます豊かになると述べます。12節以下には、献金援助のすばらしい祝福が記されています。「神に対する多くの感謝によってますます豊かになる」という祝福。互いに祈り合い、交わりを深めていくという具体的な祝福。それらがすべて神の栄光に帰せられます。
ここで問われているのは、1節にあったように「奉仕」です。仕えることです。けれども奉仕の行為のなかにも貪欲、つまり結局は自分の利益を貪ろうという思いしかないということがある。罪は恐ろしいものだと思います。
そして、そういう貪欲に勝つ道は何かと言ったら、わたしたちが祝福に満ちた思いをそこに差し出すことができるかということです。祝福というのは、わたしたち自身の祝福を意味するということも否定できないと思いますけれども、何よりもここでは相手を祝福するということです。相手の祝福のことしか考えない。こころから相手が祝福のなかに置かれることを願う。そのことに徹する。そひて、貪欲のかけらでも、自分の内に潜んでいることがあれば、それを恥じることを知る。
第9章最後の15節はこう書いて終わります。「言葉では言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝します」。パウロは、コリントの人々が神の恵みとパウロの励ましに感じて、必ず慈善献金を完遂してくれることを確信して、神への感謝をささげています。この第9章が語っている深い真理のひとつの姿がこの言葉に集中して表れています。お祈りいたします。