拒絶された神の子
イザヤ5:1~7、マルコ12:1~12
魏 燕燕_神学生
今日、私たちはマルコの福音書12章に記されている有名な「ぶどう園の農夫のたとえ話」に耳を傾けていきます。
このたとえ話は、最初に読んだ時に、人間の欲望と残酷さが剥き出しになる恐ろしい物語だと思いました。しかし、この物語の比喩表現と歴史背景を解いていく時に、この物語の奥底には、人間の神に対する「拒絶」の罪深さと、それさえも包み込んで救いへと変えていかれる「神の圧倒的な愛と主権」が美しく描かれていることに気づかされます。
当時のイスラエルの人々にとって、「ぶどう園」という比喩はとても馴染み深いものでした。ぶどう園とは「神の民」の象徴であり、その主人は「神ご自身」を指しています。マルコの福音書12章1節には「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。ここで注目したいのは、主人の細やかな配慮です。神様は、ただ荒れ地を農夫たちに渡して「さあ、働け」と言われたのではありません。外敵から守るための垣を巡らし、すぐに加工できるように搾り場を掘り、見守るためのやぐらまで建ててくださいました。つまり、農夫たちは何の不自由もなく、すぐに豊かな収穫を始められる環境を与えられたのです。しかし、時が経つにつれ、この農夫たちの心に恐ろしい変化が起きました。2節から5節にかけて、収穫の時期になり、分け前を受け取りに来た主人のしもべたちを、農夫たちは袋叩きにし、次から次へと殺していきました。彼らが長く管理しているうちに、「このぶどう園は自分たちのものにしたい」という欲望が生まれたからです。ぶどう園はあくまでも「借り物」であり、彼らの役割は収穫の一部を感謝をもって主人に返すことだけでした。しかし、農夫たちは「管理者」であることを忘れ、いつの間にか「所有者」になろうとしたのです。主人の存在が邪魔になり、主人を人生から締め出そうとしました。
イスラエルの歴史は、神の愛に対する拒絶の歴史そのものでした。神様は何度も預言者たちを送り、「悔い改めて立ち戻りなさい」と愛の警告を与え続けましたが、民は預言者たちを拒絶し、迫害し、その血を流してきました。
もし私たちがこのぶどう園の主人ならどうでしょうか。普通なら、すぐに契約を打ち切り、兵隊でも送ってぶどう園を取り戻すはずです。しかし、神様が選択したのは「武力」ではなく、はるかに超えた、さらなる「忍耐」であり、「愛」でした。
6節、主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に「愛するひとり子」を遣わしたのです。しかし農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう」と、息子を捕らえて容赦なく殺し、ぶどう園の外に遺体を投げ捨ててしまいました。この「ぶどう園を自分のものにしたい」という動機こそが、聖書が語る「罪」の本質です。ぶどう園の外に投げ捨てられた息子、これこそが、エルサレムの門の外、ゴルゴダの丘で十字架につけられた、神のひとり子イエス・キリストの姿です。
私たちはどうでしょうか。「自分の人生は自分のものだ。私が主人として生きたい」と、神様を自分の人生の枠組みから締め出すとき、私たちはあの農夫たちと同じように、神の子イエス・キリストを人生の外へと放り出しているのではないでしょうか。
イザヤ書5章の「ぶどう園の歌」は裁かれる悲しい結末ですが、新約聖書が語る福音は違います。それは、人間の犯した罪から神様の最大の救いが始まったという大逆転のメッセージです。イエス様は詩篇118篇の言葉を引用して語られました。「家を建てる者たちの捨てた石、これが隅の親石となった。」人間によって「いらないもの」として捨てられたイエス・キリストを、神様はその十字架の死と復活を通して、全人類の救いの歴史を支える「最も重要な親石」、揺るぎない最大の土台へと変えてくださったのです。
自分が主人になる生き方は、一見自由に見えて常に不安と背中合わせです。しかし、イエス様が「捨てられた神の子」となられたのは、あなたを神の家族に迎え入れるためでした。あなたのすべての失敗、自己中心という罪を、あの十字架がすべて引き受けてくださったのです。
この圧倒的な愛の前に立ち返りましょう。自分の手で人生をコントロールしようとする高慢さを手放し、十字架で捨てられたキリストを、もう一度人生の「親石」としてお迎えしようではありませんか。このお方に人生の主権をお返しし、信頼して歩むとき、私たちの人生は豊かな恵みに満たされ、愛と喜び、平和の実を結ぶぶどう園へと、新しく作り変えられていくのです。この確かな約束をしっかりと握りしめて、今週も歩んでまいりましょう。