互いに支え合う
2026年8月9日
イザヤ54:1~8、エフェソ15:21~6:4
関 伸子_牧師
エフェソの信徒への手紙はパウロの獄中書簡となっていますが、特定の教会を対象にするというよりは一般的であるところから、エフェソとその周辺の諸教会に宛てたものと思われます。またこの手紙は、当時のギリシア・ローマ文化を背景にして書かれていることも事実です。この時代も、現代と同様に家庭が崩壊していました。「彼らは感覚が麻痺し、放縦に身を任せ、放縦のままにあらゆる汚れた行いにふけっています」(4:19)と言われても仕方のないものでした。キリスト者は、こういう生活の中から召し出され、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって作られた新しい人を着なさい」という言葉に従ったのです。
第5章21節以下は、結婚式の時によく読まれる箇所です。「妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)。「従いなさい」という表現は、原文にはありませんがここでは補われています。パウロが妻たちに対して求めている夫への服従は、無条件のものではなく、誰であっても「神に倣う人」として、相互に神の愛に基づいて愛する場合の命令です。ここでは命令が問題なのではなく、「キリストと教会」の秘義が、夫と妻の関係に映し出されていると言うのです。
つまり結婚は、キリストの恵みの比喩とされているのです。神の恵みによる相互のゆるしは、単なる人間的な寛容や放任とは違います。それは、主の祈りにある、「わられに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という祈りを深く、現実の生活の中で学び、日々新たに祈り続けるのです。そのために、絶えず十字架の主に立ち帰らなければなりません。
パウロがここで語っているように「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」ということは、神が定められたことです。カトリック信者であった作家の曽野綾子は『誰のために愛するか』の序文で「愛」ということばの定義をしています。愛とは「その人のために死ねるか、どうか、と言うことである。」言うまでもなく、この定義は聖書のみことばを下敷きにしています。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも教題のために命を捨てるべきです」(ヨハネ一3:16)。その人のためにいのちを捨てることができるという愛の関係において、妻は夫に従いなさいと命じるのです。
夫婦にとって、もっとも大切なことは誠実さです。互いに誠実さを求められるでしょう。誠実さとは何でしょう。それは、互いに、お互いのものになり切っていることではないでしょうか。聖徒すなわち聖なるもの、神のものとされる。教会も同様です。栄光の姿の教会(27節)と書いてあることは、それを示しています。その教会は、「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、御自分の前に立てるためでした」(26,27節)とあります。「言葉」と「水で洗うことによって」とあります。ある人びとは、これは、洗礼の時の言葉である、と言います。またある人びとは、これは、福音そのものを指すものである、と言います。それば、どちらにしても大きな違いはありません。それは、神の約束の言葉だからです。神が恵みをもって救うと約束された救いは、必ず成就されることを保証した言葉だからです。
キリストの花嫁とされた教会は、栄光に満ちた何の工夫も技巧も必要のない全く聖なるものです。それと共に、今わたしたちのいるこの教会も、信仰によってきよめられた、という意味においては、同じものです。
「私たちはキリストの体の一部なのです。『こういうわけで、人は父母を離れて妻とむすばれ 、二人は一体となる。』この秘義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」(30,31節)。ここまで著者は、キリストと教会の関係を主人と僕、頭と身体の関係として比喩してきました。それをここでいきなり夫婦の関係にあてはめるのは、論理的に飛躍していますが、著者の意図としては、明瞭にそういうことなのです。それが可能なのは、著者の頭の中では、夫婦の関係は主従の関係、ないし頭と身体の関係と同じである、という考えが支配しているからです。
「秘義」とは、特定の人にだけ教える事柄であり、神のみがその内容を人に開示できるものなのです。パウロはここで、男と女がその親から離れて、相互に結び付けられるという奥義を語っています。この二人が一体というのは、三位一体の神の写し絵でもあるのです。父・子・霊という、三つはそれぞれに違いながら一つです。
さらにそれは、すべて人間の交わりの原点であります。神の前で結婚式が行われるのは、ただ、約束を厳かにすることだけでなく、キリストと教会との関係から、神がお定めになることを信じることなのです。パウロは、そう言いながら、これによって教会の本質を明らかにしようとさえしているのです。この奥義が偉大なのは、教会がキリストの「良い香り」を放って(エフェソ5:2)、これからも多くの人々を引きつけて成長するからです(4:15,16)。
パウロは前節で教会全体について語った後に33節で、個別に人々の焦点を当てます。 原則は、お互いにキリストをおそれる恐れの中で、仕え合うことです。そこで、頭であるキリストが、実は、教会を愛して自分自身をささげてまで、愛し抜くこのキリストの愛が、夫に求められています。妻には、夫への奉仕が求められています。そして夫が妻を愛するのは、実は自分自身を愛することだと鋭く見抜いています。その愛を通して、キリストが教会を育て養ったように、成長へと配慮することが、本当の愛であることになります。キリストを頭としたわたしたちの教会において、互いに愛し合うことを学んでいきたいと思います。お祈りをいたします。