カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    み言葉と祈りに生きる

    2022年11月27日
    エレミヤ書33:14~16、ルカによる福音書21:25~36
    関 伸子牧師

     主イエスは、今、目にみえないものに目を注ぎます。主は、神殿のすばらしさに驚き、驚嘆している人々に対して、やがて、それらが残らず崩壊することを預言されました。事実、この後、40年ほどあとに、ユダヤ戦争のためその通りになりました。預言者エレミヤも、神殿の崩壊を預言しました。民はエレミヤに対し、「あなたは死ななければなりません」(26:4~6)と言いました。イエスもまた、このことで、十字架につけられることになります。神殿とエルサレムの崩壊、それは、目に見える偶像の崩壊です。

     ルカは、今日の聖書箇所の直前で、エルサレムの包囲と滅亡を予告しています(20~23節)。そして、いまや、イエスの二度目の到来を示唆します。つまり、いわゆる「再臨」のことです。これも私たちの信仰の内容のひとつです。「人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(27節)。この描写は非常に黙示的です。「人の子が来る」というのは未曽有の天変地異というモチーフと共に、旧約聖書から受け継がれています。私たちは黙示を大惨事のことと考えがちですけれども、それは、神の救いの啓示のことです。主イエスの二度目の再来により、隠された真実が、光のなかで明らかになるでしょう。

     今日のルカによる福音書を読むと、人の子の到来を述べる27節をはさんで、将来の出来事を述べる25節、26節と「あなたがた」への忠告を述べる28節、34節から36節が対照的に配置されています。このような構成を念頭に読みなおすと次の二点に気づくでしょう。ひとつは、28節以下とは対象的に「あなたがた」が一度も姿を現さないことです。登場するのは、「諸国の民」であり、「人々」です。もうひとつは、マルコによる福音書の平行箇所と比較すると明らかですが、ルカ福音書では天変地異の具体的様相やそれの起こる時期にはさほど関心はなく、むしろ、その転変地異が、「人々」の間に起こす混乱に注意が向けられていることです。その混乱とは「恐怖のあまり気を失う」(ルカ21:26)ことです。しかし、この恐怖と不安はたしかに天地変動をきっかけに引き起こされるのですけれども、それを助長する真の原因は他にある。人の子の到来がそれです。人の子は世をさばくために神から派遣されたのです。つまり、天変地異は神による最終的なさばきの開始を告げる予兆とみられていたのです。したがって、天変地異そのものが恐れられていたのではなく、それと結びついた神のさばきが恐れの対象となったのです。

     28節以降では27節以前には一度も現れない二人称複数「あなたがた」が9回も用いられています。また、28節冒頭の「このようなことが起こり始めたら」は25節以下の出来事、特に27節の人の子の到来を指します。しかも、この人の子の到来は「あなたがたの解放の時が近づいている」ことのしるしなのです。

     主イエスは私たちを滅びに定めることを目指しているのではありません。エレミヤはやがて訪れる主の日を「恵みの約束を果たす」(33:34)と言っています。エレミヤ書第30章から33章には「私がイスラエルとユダの繁栄を回復する」という神の言葉が頻繁に語られ、捕囚民の帰還とエルサレムの復興を預言しています。そこから、この箇所は「慰めの書」と呼ばれています。

     今日の箇所では、ダビデの子孫から出現する「若枝=メシア」がもたらす救いが語られています。エレミヤ書第33節15節の「若枝」と訳された言葉は、「かなえさせてくださる」の名詞形です。ですから、ダビデの最後の言葉の背景にして、「若枝」という言葉を使うとき、この語は容易に「ダビデの子孫から出現する王(メシア)」を指す隠喩とすることができます。しかし、ダビデは「正義」の若枝であり、「正義」をもって国を治めます。聖書の正義は「神と人の関係、人と人との関係への誠実さ」を表しますから、この若枝は、ダビデとの関係を大事にする神に教え導びかれ、人との関係を大事にすることと言えます。こうして「主は我らの義」という状況が生み出されますが、ここで「義」と訳された言葉は「救い」と同根であり、神や人との関係への誠実さの結果としての「救い」を表しているようです。

     主イエスは終末の来臨の時を「あなたがたの救いが近づいているからだ」(ルカ21:28)と言っておられます。この「救い」は新共同訳では「解放」と訳され、この言葉は、元来は身代金を支払って奴隷を買い戻すことを意味するものです。新約聖書ではしばしば「贖い」と訳される。ここでは救いの完成を意味します。こういう恵みの意志があくまでも先行しているのです。

     再臨は恐怖を誘うものではなく、反対に、勇気を呼び起こします。さらに、来るべきものに対して注意を払うことは、ただ受動的に待つのではなく、目を覚まして待つことです。つまり、時のしるしに深い注意を払うことです。その中に、主はご自身を現わされます。主は終わりの日、審判者でありながらも、私たちを救うために全力を尽くしてとりなしてくださる。この救いの完成をもたらす恵み深い主を悲しませないように、ぜひとも神の民としてふさわしい歩みをしたい。今日から待降節(アドヴェント)が始まります。この期間から主イエスのご降誕の日まで、いつも目を覚まして祈る者でありたいと思います。祈ります。