カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    ひたすらな祈りが見せるもの

    2026年6月7日
    歴代記下15:1~8、使徒言行録4:23~31
    関 伸子_牧師

     今日は使徒言行録をご一緒に読みます。この使徒言行録はわたしたちの教会の話ですから、それだけでも楽しく読めると思います。この書は「聖霊行伝」とも言われています。神御自身のわざの記録です。この箇所中心は31節「皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした」でしょう。

     少し前、第4章13節以下は「ペトロとヨハネの釈放」のことが記されています。ペトロとヨハネは、「イエスの死と復活」のことを説教し、それが理由とされて逮捕されました。次の日、議会で取り調べを受けましたが、議会での論点は「イエス・キリストの名」による奇跡行為についてでした。二人を黙らせ従わせようと脅迫しましたが、そこが、証言の場と変わってしまい議員たちは驚くばかりでした。驚きの理由は、ペトロとヨハネが「大胆な態度」、つまり、聖霊を受けた伝道者として無学な普通の人であるにもかかわらず、見事に証言したからでした。

     ペトロとヨハネは、釈放されるやいなや、まっすぐ仲間のところに向かいました。ここに「仲間」という言葉が出てきます。「仲間」と訳していますが、使徒言行録もギリシア語で書かれていて、直訳は「彼らのもの」といった意味なのです。「彼らのもの」と言うと、自分の家族を意味することもありますけれども、自分の家族と同じくらい親しく、いや、それよりももっと親しい仲間がすでにここにあるのです。

     信者たちは、神に信頼し守られていることを感謝して祈りました。この詩編第2編は「王の即位の歌」と呼ばれています。神の民が、神によって定められた王を立てる。新約聖書では「主とそのメシア」と記されているこの「メシア」が「油注がれた方」と呼ばれている存在です。ギリシア語の原典で読むと、ここは「キリスト」となっています。主なる神とそのキリストに、その主なる神が立ててくださったキリストに逆らう。諸国の王は、神がお立てになった真実の王に対して逆らう。しかし、救い主キリストをわたしたちの王として迎えるようになったキリストの教会は詩編第2編を愛唱したに違いないと思います。

     そこで、この詩編第2編を、自分たちはどのような信仰の言葉として読んでいるかということを、もう一度神に対する信仰の言葉として27節に言います。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、諸民族やイスラエルの民と共に集まって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、御手と御心があらかじめそうなるようにと定めていたことを、すべて行ったのです」。「ヘロデとポンティオ・ピラト」というのは、まさに空しいことを企てた当時の王の代表です。「油を注がれた」というのは、26節の「メシア」というところに用いられている「キリスト」とそのまま書き写すことができる言葉とは違う言葉が、ここでわざわざ用いられています。「油を注がれた聖なる僕イエス」。おそらく、キリスト教会がその歩みを始めた最初の頃に、すでにこの箇所だけではなくて、集まるたびに主イエスを「聖なる僕イエス」とも及びしたのではないかと思います。「イエス」「イエス・キリスト」「キリスト・イエス」などさまざまな呼び方がありますけれども、人間となってくださり、わたしたちと同じようにイエスという名をあたえられたお方のことを思い起こしています。どうしてイエスという名のひとりの人間になってくださったのか。それは僕として神に仕え、わたしたちに仕えるためでした。

     もちろん、この使徒言行録が語っている教会の毎日、また主の日ごとの営みにおいて、ペトロたちもよく知っている主イエスの物語を聴いたでしょう。十字架の話。そして、十字架に先立って弟子たちの足を洗ってくださった話。あるいはまた、真実の支配者というのは仕える者だとおっしゃってくださった話。あなたがたも私と同じように仕えなさいとおっしゃってくださった話。そのような物語を聴き続けたに違いありません。

     「どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と彼らは祈りました。この祈りの中で、「聖なる僕イエス」という表現があり、30節にもこの表現が繰り返されます。私たちはあまりこういう呼び方をしないかもしれません。「あなたが油を注がれた聖なる僕イエス」。神がそのみ旨を果たすために、特別に選び、聖別なさったということです。しかも29節では「あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください」とあります。私たちはこのような時、ともすると、主よ、いま彼らの脅迫を目に留め、その脅迫から私たちを守ってください、と祈りやすいのではないでしょうか。どうぞこのような災いが私のところに来ませんように、無事に信仰生活が送れるようにしてくださいという消極的な祈りをしやすいと思います。しかし弟子たちは「あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください」と祈りました。

     終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされた、大胆に神の言葉を語り出したのです。「その場が揺れ動いた」ことは、使徒たちの祈りが応えられたことを意味します。ひとの権力によって揺り動かされるのではない。神の霊によって揺り動かされる。そして再び、彼らは大胆に神の言葉を語り出しました。最も確実な祈りの答えは、祈った通りに彼らが「聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした」(31節)ことです。生命の危機に身をさらされながら、大胆に話すことができたのは彼らの持前の勇気がそうさせたのではないことは言うまでもありません。祈りが応えられて、聖霊に満たされた結果にほかならないのです。こんな素晴らしい体験はないと思います。そして、わたしたちもまた神の霊によって揺り動かされながら、大胆にみ言葉を語り続ける僕の仲間の群れを造り続けることが許されています。お祈りをいたします。