カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神に従う喜び

    2026年10月11日
    ダニエル書3:13~26、使徒言行録5:27~42
    関 伸子牧師

     先ほど使徒言行録の第5章27節から42節をお読みしました。12節から読んでいくと、教会内部に生じた悲しい出来事と、それに対する厳粛な神のさばきを通して、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」(11節)と、教会が一段と引き締まって、ますます積極的な伝道を展開するようになると、それに対する反動も激しくなり、第二の迫害が起こる素地ができていきました。

    「そこで、大祭司とその仲間たち、すなわち、そこにいたサドカイ派の人々は皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」(17,18節)。再び使徒たちが捕らえられました。「ところが、夜間に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った(19,20節)。ここで不思議なことが起こりました。そして、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言いました。神が使徒たちを牢から解放されたのは、「この命の言葉を残らず告げる」ためでしかありません。教会は、そのために生きています。教会に死に勝つ言葉、命の言葉を告げさせるために、神はどんなことでもなさいます。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中には誰もいませんでした」(23節)。生まれたばかりの教会を神が守ってくださいました。

     27節以下は、使徒たちが捉えられ最高法院で裁かれていく場面です。既にエルサレムには、「イエスの名」を賛美する人たちが多くなり、イエスを殺害した権力者たちにとって畏れを抱くほどになっていました。民衆も使徒たちを歓迎し始めていました。そのようなただ中での最高法院の審問です。激しい殺意の渦巻く裁判の席上、「イエスの名によって教えてはならない」(4:18)と、激しく命じられたにもかかわらず、従わなかったことを責めるのでした。ペトロと他の使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)と答えました。

     30節以下に記されるのは神が教会に委ねてくださった「命の言葉」の原型です。「私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手として、救い主として、御自分の右に上げられました。私たちはこのことの証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です」(30~32節)。心がかたくなであるというのは悲しいことです。人々は、ペトロたちによる明快な証しを聞いても、心が開きません。それどころか、「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」(33節)。こうなるのです。神は、使徒たちをこのような危機から逃れさせようとお思いになれば、時に応じてさまざまな手段を講じられます。今回はサドカイ派の立場にあるガマリエルという人物を用いて使徒たちを解放させました。普段から人々の尊敬を受けるガマリエルの勧告は説得力がありました。それで、議会はガマリエルの勧告を受け入れ、鞭打ちの刑と再度の不況禁止を言い渡したうえで使徒たちを解放することにしました。

     平和な日本では、このような当局の弾圧はまず起こりません。しかし、戦時中にはこれに近いことが実際にあったと聞きます。戦時中に検挙されて留置され、その牧師の牧会していた教会は解散させられ、集会は禁じられたという話を聞いたことがあります。それでも家族は主を賛美し、お連れ合いは「お父さんは、イエスさまのために苦しめられていることを喜ぶ」、と子どもに伝え、子どもは学校で「スパイの子」とののしられたり、石を投げつけられたりすることがしばしばあったそうです。これから、私たちにもそのようなことが起こらないとは限りません。それでも耐え、使徒たちのように語ることができるか。
     「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた」(41、42節)。「命の言葉」を、何が何でも語らなければならないと思い定めておられるのは神です。この神の変わらざるご意志に気づいていたからこそ、使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです」(29節)と言わなければなりませんでした。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」(28節)という権力者の脅かしに逆らって、そう言ったのです。権力者の脅かしが怖くなったはずはありません。それでも「人に従うより、神に従うべきです」と言ったのは、神は生きておられると言う事実を、神に突き付けられたからです。神の前に立つ畏れに生きたのです。

     鞭打たれたとしても、恥ずかしい思いをさせられているときにも、この思いを忘れない。今ここで辱めを受けている私は、神に従って、聖霊によって生かされている。主イエスが甦えられたいのちの主であり、今私たちの導き手、救い主であられる。それは私たちを鞭打っている人びとにとっても変わることのない真理である。どうぞあなたがたも悔い改めてください。この主によって罪を赦されるところに立ってもらいたい。この証しをすることができる。この証しをすることができた。その喜びが教会を支えたのです。「人に従うより、神に従うべきです」。この喜びが今も私たちを支えている。私はそう信じています。祈りをいたします。