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生きて働く神の言葉
2026年6月28日
詩編33:4~11、使徒言行録13:13~26
関 伸子_牧師
パウロの第1回伝道旅行は、聖霊に送り出されて、アンティオキアの教会のあつい祈りに支えられ、そこからバルナバと共に出発し、キプロス島のパフォスを経てパンフィリア州のペルゲにまで至ります。
ここで同労者であるヨハネがエルサレムに帰るという事態が生じました。ヨハネ、つまり福音書記者マルコ(12:12参照)は、バルナバとパウロのいわゆる第1回伝道旅行について行ったのですけれども、最初の上陸地であるキプロス島での活動を終えると、そこから小アジアにわたって活動を続けようとしたバルナバ、パウロと、たもとを分かち、一人で先に帰ってしまいました。マルコがパウロと対立した、ということでしょう。これから、という時の辛い経験です。
しかし驚くべきことがあります。コロサイの信徒への手紙第4章10節やフィレモンへの手紙24といったパウロが書いた手紙のそれぞれの最後に、「マルコからよろしく」とあります。この後、パウロは、マルコをゆるして、伝道の仲間に加えたとしか思えません。
さて、パウロたちは、ペルゲから離れて、ずっと進んで行って、タウロスの高い海岸山脈を越えるという険しい危険な道を通って海抜1200メートル地点にあるアレクサンドロス大王の後継者が建設した都市アンティオキアに到着しました。
パウロとバルナバは、安息日に会堂にはいっていきました。そこで、ユダヤ人とユダヤ教徒の会衆への奨励を求められ、パウロは立ち上がって説教をしました。パウロの説教は会衆の信仰を重んじる呼びかけにはじまり、イスラエルの歴史を概観し、神の救いの御計画を述べます。パウロは、ダビデまでの歴史を手短に述べながら、そこに貫かれた神の変わらない恵みを示しています。「神は約束に従って」ダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
ヨハネは、イエスが来られる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました」(23,24節)と語ります。その救い主がイエス・キリストなのです。
ここでパウロは神の話をしています。その神は、何よりも選ぶ神です。イスラエルの民を選び出してくださった神です。導く神です。この導きは、18節に記されているように耐え忍びながらの導きです。なぜ耐え偲ばなければならなかったか。ここには「彼らの行いを耐え忍び」とあります。神の民は、神の選びに応える歩みをしていない。神はいつでもそこで審きを行うことができる。怒りを払わすことができる。それを耐えておられるのです。それを赦しておられるのです。
そしてむしろ、この神の民に、常に地上の豊かさと確かさをあたえてくださる。この神の民を守るために、御自分の意志ではありませんけれども、王も立ててくださった。21節にはっきりと「後に人々が王を求めたので」とあります。23節でパウロは言います。「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。
この「救い主イエスを送ってくださった」というのと同じことを語っているのが、今日読み終えた26節の「この救いの言葉は私たちに送られました」という言葉です。「送られました」と訳されている言葉は、そこで用いられているギリシア語の意味を調べてみると、「見知らぬ土地に送り込むこと」という意味です。見知らぬ地に特別に送り込むのです。ここでは、神の救いの言葉が送り込まれてきた。だから今、私はここで語っているのだ、と言うのです。この救いの言葉が、23節で言えば「救い主イエス」のことだということは明らかです。
救いの言葉とは、すなわち、救い主イエスそのものです。では、その見知らぬ土地はどこかというと、それは神の民のことです。神の民に送られることが、神にとっては、まったく異質の世界に主イエスを送り出すのと同じ意味を持っていた。それがどういうことかということは、このあとの27節以下のパウロの言葉が鮮やかに語っています。
このイエスの登場に先立って、洗礼者ヨハネが現れて、イスラエルの民全体に悔い改めを求めました。そして、自分がどういう存在であるのかを語りました。当時、主人の履物のひもを解いて履物を脱がせるのは、その家の奴隷の仕事でした。つまり、奴隷なら、まだ主人との関係があり、主人の足に触れることもできたのです。しかし、洗礼者ヨハネは、主人の足に触れて、その履物を脱がせる価値さえ自分にはないと言うのです。しかし、このヨハネも殺されました。そして、主イエスも殺された。その定めを、これからパウロはまことに厳しい、しかも鮮やかな言葉で語り始めます。
ダビデも洗礼者ヨハネもイスラエルの民族に大きな意味をもつ存在であり、彼らが指示しているのが、イエス・キリストなのです。その福音を会衆に告げ知らせたのです。非常に力強い勧めとなり、次の安息日になると、「町中の人が主の言葉を聴こうとして集まって来た」(44節)。
私たちの生きている社会には、暴力が溢れています。神さまの期待に応えられない自分に失望することがあります。しかし、神さまの御計画は今も続いています。かつてキリスト教徒を迫害していたパウロが、主イエスと出会い、人生を180度変えられたように、神さまは私たちが神のもとに帰るのを待っておられます。何があっても神さまは決してわたしたちを見捨てません。たとえ私自身が「全てから切り離された」と感じていたとしても、です。なぜならば、神さまがそのように約束してくださったからです。その神の愛に包まれているのでわたしたちはこの厳しい社会で神の生きた言葉を聴くさいわいを感謝して共に歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。