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いやされた証人
2026年6月14日
サムエル記上16:14~23、マルコによる福音書5:1~20
関 伸子_牧師
マルコによる福音書第5章1節から20節には、ガリラヤ湖の東岸に着いた主イエスと悪霊につかれたゲラサ人との出会い、そしてイエスによる癒しの物語が記されています。
「汚れた霊に取りつかれた人」に、社会は、誰も声をかけません。この人は、住むところを失い、墓場を住まいとしていました。この人は、足かせや鎖で縛られていましたが、鎖は引きちぎられ、足かせは砕けて、誰も彼を制する力がありませんでした。この汚れた霊に取りつかれた人は、鎖を引きちぎる大きな力を持ち、足かせを根気よくこすり続けて壊すような持久力も持っていたのです。確かに、このような力を持つ人を制する人はいなかったのです。「彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」(5節)とあります。墓場は死の象徴であり、山は神の住む天に最も近い場所ですから、この人は一日中、汚れた霊によって汚れた言葉を神に対しても叫び続けていたのでしょう。
1,2節に目を向けると、この人は「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った」とあります。大変不思議なことに、この人が、自分からイエスに向かって歩きだしていることです。そして、この人は、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」(6節)たのです。これまでのことからは到底考えられないことが、今起こっているのです。イエスについての噂がこの人を動かしたのだろうと思います。
汚れた霊は、イエスがどういうお方かを知っていました。それでイエスを見つけると駆け寄ってひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)と大声で叫びました。田川健三訳でここは「俺とあんたの間にどういう関係がある。」と訳していました。この男はイエスとのかかわりを望んでいたのではありません。この地方から追い出さないようにしてほしいと願ったのです。
主イエスが悪霊に「名は何と言うのか」とお尋ねになると、彼は「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えました。汚れた霊の故に失われた人を捜し出そうとする主イエスの問いかけです。レギオンはローマ帝国の軍隊を意味する用語です。ローマの一軍団6千人。当時のイスラエルはローマの軍政下にあったので、この男は苦しんでいる民衆の比喩であるという主張も生まれたのでしょう。しかし、やはり、この男が悪霊の圧倒的な支配のもとにあることを強調した表現ととるのがよいでしょう。
主イエスは、男から悪霊を追い出されました。悪霊は、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。山の中腹で多くの豚が飼われていたからです。豚はユダヤ人が最も嫌っていた動物、豚が飼われていたことからこの地方には異教徒が住んでいたことが分かります。「湖の向こう岸」「豚の大軍が飼ってあった」「デカポリス」(5:20)という一連の表現から、この地方がユダヤ人とは全く異質の世界であったことが強調されています。
さて、イエスがそれを許すと、二千匹の豚が崖からなだれ落ち、湖でおぼれ死にました。この一連の出来事は、イエスがメシアであることを現すと同時に、悪霊につかれた人を救うためでしたが、その近隣の人々は自分たちの豚が集団自殺したのを知って、大きな衝撃を受けました。そのうえ汚れた霊に取りつかれていた人が正気に戻っているのを見て、非常な恐怖に襲われました。人間は日常の経験を越えた出来事に遭遇すると、だれでも大きな不安と恐怖に襲われるものです。そして彼らは、イエスにこの地から立ち退いてくれるようにお願いしました。豚を失って多くの経済的損失を受けたいまいましさのためでしょうか。それだけではなく、イエスに対する不安と恐怖心のためであり、自分たちの日常生活が根底から脅かされることの恐れからでした。こうして、ゲラサの人々は、イエスの立ち去ることを願い、その結果、メシアを失ってしまいました。同じ理由のため、今日でも自分からイエス・キリストを失う者が多いのです。
イエスたちがその地方を去ろうとすると、悪霊を追い出してもらった男は、イエスの御供をしたいと願い出ました。しかし、イエスはそのことをお赦しにならないで、彼の身に起こったことを親類やまわりの人々に伝えるようにと言われました。そこで、彼は自分の郷里でイエスが自分にしてくださったことを言い広めたのです。
主イエスについて行くには二通りの道があります。それは弟子たちのように、文字どおり家を離れ、イエスに付き従って行く道。イエスはこの人には、その道をすすめませんでした。もう一つの道は、「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」(19節b)。この道をすすめました。地鳴りのような響きを立てた、あの恐ろしいものに取りつかれていたあの重さから解放されて、この人はほんとうに軽やかな足取りで我が家に帰るのです。
主イエスはここから立ち去られました。しかし、これらの人びとを見放したのではありません。ちゃんとその男を置いて行ったのです。そして、わたしのことを話し続けてくれるようにと言われたのです。まるで主イエスがそこにもうひとりの御自分を残したかのように、御自身の平安に生きる人に平安のメッセージを託して、この異邦人の地を立ち去られたのです。ここにも、わたしたちの物語があります。主はこのように、すこやかにわたしたちに家に帰ることができるようにしてくださいました。お祈りをいたします。