カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 東京都小金井市にある、カンバーランド長老キリスト教会東小金井教会のページです。毎週日曜日の礼拝説教の要旨をご紹介しています。このページでは、最新の説教を掲載しています。以前の説教は、メニューの「説教一覧」からご覧になれます。
    当教会は、神の家族がここにある!と実感できるアットホームな教会です。当教会のホームページもぜひご覧ください。

    救いをもたらすために

    2026年9月20日
    詩編96:1~9、ヘブライ人への手紙9:23~28
    関 伸子_牧師

     信仰生活おける最大の課題は、昔も今も変わらず、罪の赦しの確信です。キリスト者が天上の恵みの座に大胆に近づくことができるように、牧会的な思いから、著者は罪の赦しをたびたび取り上げてきました。

     ヘブライ人へ手紙第9章23節、24節は前からの続きです。これまで旧約聖書の記述をもとに、新しい契約、遺言、血による清めについて語ってきた著者は、次に天上の出来事と地上の出来事を対比させて語り始めます。「天にあるもの」という表現は、原語では複数形です。具体的には、「人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、より大いなる、より完全な幕屋」であり(9:11)、「人間ではなく主がお建てになった聖所と真の幕屋」です(8:2)。

     天にあるこのような真の幕屋に対して、このいくつか例とは、モーセが神からの命令に従って造ったこの世の幕屋であり、この世の幕屋は、動物の生けにえの血を伴う儀式によって清められる必要があります(9:13、18-19、21-22)。ここでは、過越しの「犠牲の血」による贖いによる救いの恵みを教えています。

     出エジプト記第12章21節から27節は、「主の過越」の記念となる出来事を記しています。モーセは、過越の犠牲を屠り、その地を鴨居と入口の日本の柱に塗りなさいと、命じました。主なる神が過ぎ越されるしるしとされるものでした。イスラエル共同体の、毎年の過越祭で行われる儀式であり、そこでは「犠牲の血」がささげられていきます。犠牲には、「傷のない一歳の雄の小羊」を屠らなければならないとされました。その肉を火で焼いて食べる他に、酵母を入れないパンに苦菜を添えて食べるとされたのです。

     ヘブライ人への手紙第9章23節から28節は、イエス・キリストが罪を贖う「唯一の犠牲」であると述べられています。古い契約の下では、大祭司が年毎に繰り返し犠牲の血をささげなければなりませんでした。しかし、キリストは、一度、この世に肉をとって来られ、御自分を十字架の犠牲とされました。その犠牲の血によってすべての人の罪が贖われたのです。

     24節に、キリストは、わたしたちのために神の前に現れてくださったとあります。神の前とは、正確には「神の顔の前」であります。神はかつてモーセに対して「あなたはわたしの顔を見ることは出来ない。人は私の顔を見て、なお生きていることはできないからである」(出エジプト33:20)と言われました。その神の御顔の前に、キリストは御自分を現わされ、神に見られるものとなりました。それは神に知られるものとなったことであり、神に愛されているものとなったことです。そのことを、キリストは「わたしたちのために」、すなわちわたしたちの代表者として、してくださった。つまりわたしたちもまた、キリストと共に神の前に姿を現すものとなったのです。キリストと共に神に知られるもの、神に愛されるものとなったのです。

     このように、わたしたちの礼拝を、天上の礼拝に直結するものとしてくださったキリストの犠牲とは、どのようなものなのでしょうか。25節以下にそのことが記されています。大祭司は毎年動物の血を携えて聖所に出、自分の罪または民の罪のために罪の赦しの注ぎを繰り返さなければなりませんでした。主イエス・キリストがそのようなことをなお継続なさるのであれば、キリストの犠牲は繰り返さなければなりません。26節に厳しく言います。もし繰り返さなければならないとすれば、「天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです」。無数の苦しみを重ねなければならない。アダムとエバが罪を犯したその時に既にキリストの苦しみ・キリストの十字架がなければならなかったことになる。ここに記されていることは何を意味するのでしょうか。アダムとエバの罪がキリストの十字架において取り去られるということです。カインの罪が赦されるということです。

     キリストがご自身を献げることは、苦しみを伴うみわざでした。罪を「取り除くため」とあります。その犠牲は、「ただ一度だけ」のものでした。ただ一度だけとは、「多くの人の罪を負うために」、罪を赦すためのいけにえとしてご自分を献げることです。そしてキリストの場合には「二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださいます」と、二度目の現れが語られます。28節の「現れ」は、原語では24節と26節の「現れ」とは違う言葉で、直訳すると「見られる」という意味です。目で見て分かるような仕方で、キリストは二度目に現れてくださいます。再臨と呼ばれている事柄です。

     このようなキリストによる救いのわざが完全に成就したので、神はいつの時代においても、キリストのもとに来る者たちに対し、「私はもはや 彼らの罪や不法を思い起こすことはない」(10:17b)と言って、罪の赦しを宣告されるのです。

     この手紙の著者が熱心にわたしたちに勧めることは、礼拝に生きる心があなたがたの日ごとの心になるようにということです。しかし、これは、私ひとりの願いではないと思います。わたしたちの教会全体が今あらためて願うことです。一緒にお茶を飲んでいても、どんなに楽しく過ごしていてもいいでしょう。しかし、その根底にこのキリストの血が流された唯一の事実があって、そのために、今わたしたちは、そのように神のみ前にあって神の子として生きることができるということを、わたしたちが知り続けているならば、あの言葉はなかったはずだ、この言葉は消えるはずだということが至るところに見られるのではないでしょうか。そのことを改めて神のみ前に深く悔い改めて、帰るところこのように備えられていることを感謝したいと思います。