カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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    神の時を待つ

    詩編 126:1~6、ヨハネ 12:20~26 2026/8/30
    臼井 正人_長老

     詩編第126編は7番目の「都に上る歌」です。バビロン捕囚から帰還後、神殿再建を試むものの、なかなか思い通りには行かず、失意の中でそれでも主に頼る信仰を歌った詩といわれています。紀元前538年、バビロンを征服したペルシャのキュロス王がユダヤ人のエルサレム帰還と神殿再建を許可し、帰国の途につきました。イスラエルがバビロニヤによって滅ぼされ、エルサレムが廃墟になったのが紀元前587年ですから50年経っています。人々は帰国を1節で「主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき 私たちは夢を見ている人のようになった。」2節で「「主は、この人たちに大きな業を成し遂げられた」と喜ばしい出来事として歌いました。しかし現実は厳しかったようです。帰国者が最初に行ったのは廃墟となった神殿の再建で、翌年には基礎石が築かれたそうですが、やがて、再建は頓挫して20年間も放置されたそうです。先住民が帰国民を喜ばず神殿再建を妨害し、干ばつによる飢饉が発生。人々は自分たちの生活に追われ神殿再建の余裕がなくなりました。3-4節で「主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。/主よ、ネゲブに川が流れるように 私たちの繁栄を再びもたらしてください。」と歌います。ネゲブ川が夏には枯れ、冬に恵みの雨で回復するように、私たちも回復させてください。捨ておかないでくださいと祈ります。ここには、神の力を信頼して祈る信仰の力が感じとれます。

     日本でも戦後、外地から着の身着のままで日本に帰りさえすれば何とかなると帰国したものの、待っていたのは食糧難で親族や近隣の人にもあまり歓迎されなかった。現在も、戦争や紛争で多くの難民が故郷を離れ生活しています。ドキュメンタリー写真家、小松由佳さんがシリアの内戦・難民を取材して著した『シリアの家族』を読むと、故郷への帰還を夢見て苦難に耐えている人々の生活が窺えます。50年振りに帰国したら、住んでいた家には他の人が住んでいて、畑も他人のものになっているなど、現実は予想を上回る厳しさだったと想像されます。そして、5節、6節には「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」と続きます。今は苦しく涙を流していても未来は喜びが待っている。「私たちの繁栄を再びもたらしてください」(4節)の願いが実現する。しかし、そのためには、涙を流しながらも、なお種を蒔かなければならない。自分たちに与えられた日々の役割を果たして行かなければならない。それは古代イスラエルの信仰者たちが繰り返し体験してきたことでした。旧約聖書の中には神が泣き声を聞かれた、涙をぬぐってくださると記された箇所があります。また、新約聖書にも主イエスが「あなたがたは苦しみにさいなまされるが、その苦しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)と語られ、ヨハネの黙示録21:4は「目から涙をことごとく拭いさってくださる」とイザヤ書25:8を引用しています。神が涙を喜びに変えて下さることに希望をもって、辛い日常を生きなければならない信仰者たちに励ましと慰めを与えてくれます。バビロン捕囚という最悪としか思えない悲惨な出来事にも神さまのご計画がありました。捕囚から戻ってから500年の時を経て、主イエスが誕生されました。

     マルコによる福音書「種を蒔く人」のたとえで、主イエスが「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実は結ばなかった。また、ほかの種は。良い土地に落ち、芽が生え、育った実を結び。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」(13:3-8)と語りました。生きるためには一度死ななければならない。主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くも実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)と語りました。一粒の麦である主イエスご自身が十字架の上で死に復活されました。主イエスの十字架の死は、永遠の命につながる死であり、豊かな実りをもたらす死であり、多くの収穫をもたらす死です。この世の生活は楽しいことばかりではありません。むしろ、何かしらのトラブルや悩み、腹が立ったり辛かったりの連続で、生き辛さを覚えている人が多いかと思います。地震、台風、水害など予期せぬ災害で多くの人が苦難の中にいます。幸福そう、うまくいってそうに見える人でも悩みや痛みを抱えたりしています。どうしてこんなに理不尽・不条理なことがおこるのだろうかと絶望的になることがあります。私たちは、種を蒔いてもなかなか実を結ぶことがなくて忍耐を強いられることが多いと思います。何かに挫折し、悔しい思いをしたり、悲しみや不安を抱えながらでも生きています。それが生きるということなのかも知れません。東小金井教会は、私が初めて来た30年前とは様変わりをしています。特にコロナ禍を経て、礼拝出席者が減っています。しかし、本日の詩編のように、私たちもいつかは「喜びの歌」に変わることを信じ、希望をもって、それぞれの賜物を用いて、福音の種を蒔き続けていければと思います。この説教を準備していた時に一つの聖句を思いだしました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(新改訳 伝道者の書3:11)です。聖書協会共同訳では「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない(コヘレトの言葉3:11)と訳されています。苦難の中にあっても、その現実を受け入れ、忍耐をもって神のして下さる業に委ね、前を向いて進みましょう。種が実るのには時が必要です。主が収穫できることを約束して下さっているのですから、希望をもって種蒔きに努め、忍耐してその時を待ちましょう。お祈りします。