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愛に生きる自由
2026年10月25日
ミカ書6:6~8、ガラテヤの信徒への手紙5:2-15
唐澤 健太_牧師(国立のぞみ教会)
ガラテヤの信徒への手紙5章2節以下の小見出しには、「キリスト者の自由」と掲げられている。かつて宗教改革者マルティン・ルターも同名の著作を遺したが、私たちは果たして日々、キリスト者として自由を生きているだろうか。
牧師という職務にあると、「酒は飲むのか」「煙草は吸うのか」と尋ねられる機会が少なくない。近隣の住民から「牧師さんもラーメンを食べるのですね」と驚かれたこともある。世間において、宗教とは戒律であり、信仰に入るとは規則に縛られ、自由を奪われることだという先入観が根強い証左であろう。
しかしパウロは、本箇所の冒頭において「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださいました」と高らかに宣言する。キリスト者とは、他でもなく自由へと解き放たれた存在である。
パウロが語る自由とは、第一に「律法からの解放」を意味している。「奴隷の軛に二度とつながれてはならない」と彼が強く戒めたのは、当時のガラテヤの信徒たちが再びその軛に首を入れようとしていたからであった。割礼を受けていない異邦人信徒に対し、「割礼を受けなければ十分な救いには至らない」と説く者たちが教会内に入り込み、不安に駆られた人々がその教えに流されていたのである。
当時のユダヤ教では、モーセの十戒から派生した365の禁止命令と248の肯定命令、計613もの細則が定められていたとされる。人々はそれらを遵守しているかを互いに監視し、重箱の隅をつつくような律法の奴隷としてがんじがらめになっていた。だが、かつてその律法主義の頂点に身を置いていたパウロ自身、ダマスコ途上でのキリストとの出会いを通し、一方的な神の恵みとして解放を経験したのである。それゆえに彼は、せっかく恵みによって解き放たれながら、再び自ら奴隷の軛へと戻ろうとするガラテヤの人々に対し、危機感を込めて叫ばずにはいられなかったのである。
この問題は決して古代の教会に限られた話ではない。現代の私たちもまた、容易に「律法の奴隷」へと転落する。「クリスチャンならこうあるべきだ」「牧師たるものこう振る舞うべきだ」という「ベッキーさん」に心を縛られてはいないだろうか。
受洗後クラスにおいて、「洗礼を受けたものの、教会の諸先輩方に比べて自分は至らないのではないか」と焦りを口にする信徒は少なくない。形としての割礼に悩むことはなくとも、他者や自らが作り上げた曖昧な物差しにさらされ、「まだ足りないのではないか」と不安を募らせる点において、私たちは同じ罠に陥っている。
だが、キリスト者はすでに自由である。「これを成し遂げなければ神に愛されない、認められない」という呪縛から、十字架の恵みによって完全に解き放たれている。私たちはすでにキリストにあって「よし」とされ、義と認められているのだ。
では、聖書が告げる「自由」とはいかなるものか。一般的な辞書を引けば、自由とは「他からの束縛を受けず、心のまま、思いのままに行動すること」と説明される。しかし、自己の欲求のままに振る舞う自由は、極めて危うい結果を招く。パウロが「肉の業」と呼ぶ人間の自己中心的な欲望の数々は、心の赴くままに生きた人間の現実の姿である。他者を顧みない自己実現が人間を怪物化させてしまうように、利己的な自由は破滅へと通じる。
それゆえにパウロは、「この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」と語りかける。律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一点において全うされるからである。キリスト者の自由とは、他者との関係性の中で十全に発揮される生き方なのだ。
ルターはその著書『キリスト者の自由』の冒頭において、一見矛盾する二つの命題を掲げた。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、何人にも服従しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服従する」。律法から解放されたキリスト者は、何ものにも支配されない自由な主人である。しかし同時に、その獲得した自由を他者に仕えるために用いる僕となる。
パウロが記す通り、問題は外面的な儀礼の有無ではなく、「愛によって働く信仰」である。原語のニュアンスに即せば、それは「神の無条件の愛(アガペー)によって命を吹き込まれ、動き出す信仰」を意味する。私たちが老いや衰えを覚え、かつてのように奉仕ができなくなったとしても、他者と比較して無力感に沈むときであっても、注がれている神の愛は微動だにしない。この絶対的な愛に触れ、内側から突き動かされるとき、私たちは義務感からではなく、自由な決断として「隣人に仕える」歩みへと押し出されていく。
主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われた。枝が幹を離れて実を結ぶことができないのと同様、私たち自身の内側に愛を結ぶ力はない。私たちは本来、利己的な肉の業へと傾きやすい者である。しかし、ぶどうの木であるキリストにしっかりとつながり、その命の注ぎを受けるとき、私たちの内には自ずと「霊の結ぶ実」――愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が実を結んでいく。実を結ばせる主体は、私たち自身ではなく、私たちを生かす聖霊である。今日の世界を見渡せば、自国中心主義や独善的な主張が席巻し、対立と分断が深まるばかりである。まさに「肉の業」に覆われた混迷のただ中に私たちはキリスト者として生きているのである。
かつて連続テレビ小説『あんぱん』において、軍国主義が影を落とし、日常から自由が失われていく東京の街で、主人公が自由闊達な銀座の空気をデザインした卒業制作を発表する場面があった。周囲が戦意高揚一色に染まる中、指導教官はその作品を見て「時代に逆行しているね。いいじゃないか」と評した。
現代社会は私たちに対し、常に時代の最先端を走り、効率や趨勢に遅れぬことを強要してやまない。だが、争いと孤立が加速する時代において、その潮流に抗い、キリストの愛にとどまって隣人に仕え続ける歩みこそ、尊いのではないか。「時代に逆行している。いいじゃないか」という響きは、冷え切った世の論理に背を向け、愚直なまでに愛に生きようとする信仰者を力強く励ます。
技術の革新が目覚ましい現代にあって、私たちが本当に見失ってはならないのは、愛に生きる自由そのものである。教会に連なる一人ひとりは、互いに仕え合う愛の実をたわわに実らせる、豊かなぶどうの房である。私たちはキリストの愛に根ざして他者のために己を用いる自由に生きる者として、遣わされているそれぞれの場を歩み出していきたい。