カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神の言葉を聞こう

    2021年12月5日
    申命記4:1~8、マルコによる福音書7:1~13
    関 伸子牧師

     今日ご一緒に読む第7章の論争において主イエスは鋭く、また適切な表現をもって、人の言い伝えと神の戒めを解き明かしながら、神の真理と人間の真理について教えます。ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがエルサレムから派遣されて来たところからこの物語は始まります。「エルサレムから来た」という言葉は、形式的で、実際的な罪には無頓着で、それでいて、些細なことを取り調べる検察官を象徴しています。イエスの弟子たちは、ファリサイ派の人たちに言わせれば、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べていたのです(2節)。それを見たファリサイ派の人々と律法学者は、イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねています。

     「言い伝え」と訳されたギリシア語はパラドーシス(「引き渡す」)を意味するパラディドーミの派生語)で、これはモーセによる神の掟のように書き留められた伝承ではなく、口で語り継がれた伝承であり、モーセのおきてを現実社会に適応させるために、どのように実践すべきかを示した実例集でした。しかし、主イエスはそれを「人間の言い伝え」(8節)に過ぎないとして、モーセの掟との同等性をきっぱりと否定しました。

     神の掟のほかに「昔の人の言い伝え」が出来上がったのには理由があります。例えば、安息日という神の掟は「6日の間は仕事をし、7日目には仕事をやめねばならない」とあるだけで、やめなければならない仕事とはどのような範囲の仕事であるのか、一言も語っていません。安息日をきちっと守るためには、安息日に禁止された仕事とは何かを決める必要があります。そこで禁止されるべき仕事の範囲が決められ、それが「昔の人の言い伝え」として蓄積されてゆきました。ファリサイ派の人たちや律法学者が「昔の人の言い伝え」を大事にしたのは、神の掟を守りたいという純粋な願いからだったのです。

     神の掟を守りたいという一心から始まったことですが、細則を作ると、「神の掟を捨てる」という結果になりました。守ることが聖なる義務となりましたから、心が向かう先はもっぱら細則になり、掟を通して示される神の思いに向かわなくなったのです。

    道徳的律法については、かなり寛容であったり、偽善的であったりしました。その一例が主イエスのあげたコルバンの問題です。ファリサイ派の人々は、年老いた父母に差し上げるものを、それは「コルバン、神への捧げ物」と言えば、父母にあげなくてもすむという、逃げ道をつくりました。外面的、祭儀的おきてには、妙に細かく、うるさいのに、道徳的律法には、抜け道をつくって、自分たちを正しいとしました。私たちは、「コルバン」式の言い訳で、正しいことをせずに、ごまかすことがいかに多いでしょう。ファリサイ派の人々の問題は私たちの今日の問題でもあります。律法的キリスト者になっていないか、問われます。

     ファリサイ派の人々には、掟を守るということにおいて自分より劣っている者を蔑む心が生じていました。それを主イエスはそれを嫌いました。真の清さは神の言葉を実行することであります。そのことが申命記第4章に記されています。この箇所冒頭部を直訳すると、「今、イスラエルよ、聞け、あなたたちが行うようにと私が教えた掟と法を」となります。「聞く」ことがなくなってしまうのは、問題です。行うことは大事ですが、それに先立って聞くことがなければならないからです。「聞く」ことがなくなれば、律法を実行しなければという義務感が先行してしまいます。主イエスに「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と批判されないためには、神に聞くことが最も大事なことです。

     主イエスは、人に汚れをもたらす原因は洗わない手のように外側にはなく、人間の内面にあると教えます。今日の聖書箇所は、食前に手を洗うという「昔の人の言い伝え」から始まりましたが、これは、変えるべきものと、変えてはいけないものに関する、あの有名なラインホールド・ニーバーの祈りに似ています。

     「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの霊性さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

     「人間の言い伝え」を固く守り、「神の掟」「神の言葉」を無にする「エルサレムから来た」人々に対して、主イエスは、変えてはいけないものが「神の掟」「神の言葉」で、変えるべきものが「昔の人の言い伝え」「人間の言葉」だと批判し、さらに、差別されていた人々や異邦人を大切にするために、食物規定さえ廃棄されました。ここに人間の真実な生き方があるからです。私たちは、いつも何が心の真実であるかを問い、行いの誠実を求め、神の言葉に聞き続けていきましょう。お祈りをいたします。