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自分の願いを知る
2026年3月22日
哀歌3:18~33、マルコによる福音書10:35~45
関 伸子_牧師
マルコによる福音書第10章35節から45節までに記されているのはエルサレムへの途上で起こった出来事です。ここでわたしたちの注意を引くのは、少し前のところでエルサレムを目指して先頭を歩む主イエスを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)とあったことです。弟子たちが驚き恐れた理由は何だったのでしょう。彼らはエルサレムで起こることを理解し始めていたのです。イエスはこれ以前に受難予告を二度行っていますが、この予告は弟子たちが理解し始めた事柄の正しさをイエスが確認したことを表しています。
今日の箇所はこの受難予告に続いています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節b)と言い、主イエスが何をしてほしいのかと言われると、二人は、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください(37節b)と言います。このふたりの弟子は、主イエスの伝道の最初から主と共に歩んできました。そして主イエスのことをよく知るようになった。実際には、とんでもない誤解でもあったのだけれども、しかし、よく知っていたつもりだったのです。よく知っていたということは、信頼していたということであったと言ってもよい。そして実際に、この後主イエスは、このふたりの願いを退けてはおられません。その願いとは何か、言ってごらんなさいと問い返されたのです。
弟子たちはエルサレムで待ち受ける苛酷な運命に気づき始めています。だから、イエスが「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と問いただしたとき、彼らは「できます」と答えました。「杯」は通常その内部にぶどう酒を満たしており、洗礼は水によって人を外側から清めることを考慮すると、杯はイエスの内的な苦難を、洗礼はイエスの外的な苦難を象徴しているとも言えます。この後主イエスがゲッセマネで祈りをさった時に、神に、本当はこの杯は飲みたくありません、しかし、あなたが飲めとおっしゃるなら飲みますと言われた苦難の杯、それを思い出せばよいのです。主イエスは、その苦しみを、今自分が嘗めている、水の中に飛び込んでいくような苦難の生活に今入っている。やがてあなたがたもその杯を飲みバプテスマを受ける時が来る。そう言われたのです。
主は言われます。「私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、定められた人々に許されているのだ」(40節)。「許されるのだ」という受身形は神を口にせずに神の好意を語るための婉曲な表現です。誰が座るかを決めるのはイエスではなく、神であるから、イエスもそれが誰であるかは知らない。だとするなら、38節「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」と疑問形、39節「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。」に肯定文で語ったこと、つまり「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受ける」は栄光の座に付けるかどうかを試験するためではないのです。主イエスには決定権は全くないので、それは無意味です。
41節以後は、ヤコブとヨハネの勝手な突出に腹を立てた10人をイエスは呼び集めて語りかけます。弟子たちの目の前に二つの生き方が置かれています。ひとつはこの世(異邦人の権力者)の道であり、他方は主イエスの歩む道です。前者の道では権力を振るい、支配権を行使することが偉大さの基準とみなされます。しかし、イエスは「あなたがたの間では、そうではない」と述べて対比を浮き立たせます。一方の道は広く、歩きやすい。いつの世ももう一方の道は少数派でしょう。教会は主に従い忠実に歩むなら、少数派になるのも仕方ありません。必ずしも多数派になろうと集まる必要はないのです。大事なことは真に弟子であり続けるために、示された道をしっかりと歩むことです。
弟子たちに主は、人の上に立つ者はむしろ徹底して仕える者となるべきことを教えておられます。「身代金」は、奴隷や捕虜や囚人を解放するために必要な代価のことです。そして、イエスは罪に捕らわれた多くの人々をその罪から解放するために神に、自らの貴い魂を多くの罪人の代価として十字架上でささげました。主イエスがこの地上に来られたのは仕えられるためではなく仕えるためであり、人々の贖いとして自分のいのちを与えるためです。だからこそ、主は弟子たちの誤った権力志向を戒め、ご自分のように仕える者となるようにさとされたのでした。
今日の箇所でも弟子は報いに頼る、弱くて心もとない弟子です。しかし、彼らはつまずきながらも従うことをやめようとはしません。もちろん、イエスのように、人々に仕えるために、報いを求めずに苦難の道を歩めたら、そのほうがはるかに素晴らしいに違いありません。しかし、恐れのあまり、よたよた歩く頼りない弟子たちではあってもイエスの後を追っている。弟子というのはそういう者ではないでしょうか。
心や体に痛みを持っている者は、人に喜んで仕えてもらう。わたしたちは仕えていただくことについて下手なところがあります。けれども喜んで仕えてもらう。痛みを埋めてもらう、支えてもらう。わずかな奉仕でも喜んで受け入れながら、下手は下手なりに人に仕えていくことを喜びとする。日々の当然の心として主から与えられていることを素直に受け入れたい。わたしたちも人々に仕えられる偉い人になることを望むのではなく、徹底して人に仕える者となる。その生き方の中に、神のみこころと恵みの真実があることを覚えたいと思います。お祈りをいたします。