カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神によって鍛えられる

    2026年8月2日
    申命記10:12~11:1、ヘブライの信徒への手紙12:4~13
    関 伸子_牧師

      ヘブライの信徒への手紙は、紀元80年代ないし90年代の執筆と言われています。キリスト者がさまざまな迫害に曝されたローマ皇帝ドミティアヌス帝(在位81-96年)治世の時代です。直接的な迫害を受けていたわけではありませんが、迫害の危機に襲われていたことが見受けられます。著者は、「あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています」(4,5節)と前置きして、旧約聖書の箴言第3章11、12節の言葉を引いて教えています。

     「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても 弱り果ててはならない。主は愛する者を鍛え 子として受け入れる者を皆 鞭うたれるからである」(5節b、6節)。今日、むち打ちなどしようものなら、大変なことになります。体罰を課す教育は、スポーツの現場においても一切認められていません。その意味では時代錯誤のメッセージですが、普遍的なことが語られています。訓練・教育の必要性です。続いて「主によって懲らしめられても 弱り果ててはならない」と言われています。受信者の中には、苦しい経験に見舞われた時に、意気消沈し、主は自分たちを見捨ててしまったのではないかと考える者がいたのではないでしょうか。

     「主は愛する者を鍛え 子として受け入れる者を皆 鞭うたれるからである」(6節)。続けて、「あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです」(7節)と言われています。わたしたちは子たる身分を与えられて、今や神の家族の一員とされています。そして著者は、いかに大きな愛と保証を神から賜っているかを読者に思い起こさせています。愛するわが子のためには、親は自分を犠牲にしても、子の成長と成熟を切望します。

     なぜ親は、彼らの子どもを鍛錬するのでしょうか。それは、子どもが大きくなって自分の持っている価値観、強く心を傾けるもの、また生き方を共有してほしいいからです。一人の親として、神も同じようなあり方をします。鍛錬を受けた結果、わたしたちは成長して、神が愛するものを愛し、神の似姿へと成熟し、神の神聖にあずかるようになるでしょう。もちろん神は宇宙全体を見ておられます。土を耕し、種を蒔き、水をやる。わたしたちは、わずかな地所とちっぽけな鋤しか持っていません。しかし、神が広大な畑を耕作するのと同じ懇切なやり方で、自分たちの小さな一区画を耕作することができます。神のよる鍛錬は、わたしたちの過ちを正し、土の耕し方をわたしたちに教えてくれます。

     同じことが神についても言えます。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、御自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです」(19節)。ここにも本当にびっくりする言葉があります。「御自分の聖性にあずからせようとして」と言うのです。わたしたちの存在が神の聖さを映すようになる。神聖というのは神が神であられるために、最も重要なことです。神は聖なる方です。その神の聖さにわたしたちがあずかることができる。肉の父には、こういうことはできません。子どもを心注いて鍛えることがあっても、子どもが自分と並ぶことは許さないところがあります。しかし、霊の父である神は、ここでは御自分が神としていちばん大事にしておられる聖さに、わたしたちが霊の子としてあずかることができる道を備えてくださり、そのために鍛錬していてくださる。

     神は「それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです」(11節)とあるように、わたしたちが「平安な義の実」を持つように望んでいます。神の右に着いたイエスを見つめ続け、「主の鍛錬」を耐え抜くなら、苦しみの中にあっても信仰を守り、最後まで歩む力を与えられます。

     苦しみや災難にあってみて、あのときは痛かった、苦しかったけれど、結果、あれが私の信仰のためには無駄ではなかったと、はじめて思います。あれで私は信仰の純粋さを守ることができたのだと合点がいきます。ほんとうにいまはわからない。けれども、やがてわかる時が来るのです。わたしたちが経験する困難や苦難、試練のいっさいには、目的があります。神の主権のもとでは、むだというものはありません。キリスト者は、苦しみに直面する時に、それがもたらす実を覚えなくてはなりません。

     何のためになされている訓練であるかをわきまえる者は、決して「主の訓練を軽んじて」(5節)ません。キリスト者も苦しみはあるけれど、信仰の喜びは苦しみを溶かしてしまうものです。それは、天的なものであり、地上のどのようなものよりまさった喜びです。信仰的に手が萎え、ひざが弱くなり、道を踏み外す姿は、むしろ肉の手やひざや足が健やかであるときにこそ起こりやすいと言えるかもしれません。しかし、あらゆることができなくなったとき、静かに手を合わせて神に祈る姿勢の中に、信仰の生涯、神の鍛錬としつけ、試練と闘った生涯の日々が凝縮してくるのではないでしょうか。お互いに励まし合って生きようではありませんか。ここに神の家に生きる新しい神の民の道があると勧めてくれるのです。お祈りをいたします。