カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    主イエスに遣わされて生きる

    2026年6月21日
    アモス書7:10~15、マルコによる福音書6:7~13
    関 伸子_牧師

     マルコは第1章16節以下でペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネの召命を記し、第3章13節以下で「十二人の選び」を述べており、今日の箇所で十二弟子の派遣が実行されます。なぜ、十二という数を大切にしたのでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブ。三人の信仰の祖先を持っているイスラエルの民が、ヤコブの時に、その子十二人を頭とする十二部族をもって組織されました。この十二の部族をもって造られる神の民イスラエルが、今ここにおける十二人の者によって新しくされているのです。マルコもそう思った。弟子たちもこの十二人と同じように主イエス・キリストによって遣わされている者なのだと信じたのです。

     「二人ずつ遣わすことにされた」(7節)と、聖書は書いています。このことは、後の教会の伝道のひとつの基本的な原則となりました。なぜ二人ずつであったか。このことについての解釈はさまざまです。ある人こんなふうに言う。二人ででかけることはいいことである。ひとりが絶望しても、もうひとりはなお望みを持ち続けることができる。そうすれば、絶望してしまった人間はなお望みのなかにある者から望みを分けてもらえる。また、ある人はこんなふうに書いています。ひとりが疲れ果てて倒れる。立ち上がれない。そこでもうひとりが、力が余っていれば手をそえて助け起こして、自力で歩けるようになるまで支えて歩かせてくれるだろう。二人ずつ遣わされることは重要です。

     8節から9節は持ち物についての注意です。杖を持つことと履物を履くことは許されています。杖は蛇や獣を避けるための道具となるし、荒れた野山を歩くには履物を履いたほうがよい。しかし、マルコでは許されている杖と履物が、ルカとマタイでは禁止されています(ルカ9:3、10:4、マタイ10:10)。この食い違いを根拠に、規則の緩められたマルコのこの箇所はルカとマタイの平行箇所より新しい、とされます。しかしマルコでも「パン・袋・帯に入れたお金」は携帯を禁じています。下着を二枚持つことは裕福さのしるしです。神の国の使者たちは、このように質素に、ただ本当に、重要なものだけを携えて出かけなければなりません。

     10節から11節には伝道地に逗留する際の注意が語られています。家に受け入れられたら、そこにずっと留まらなければならない。より快適な待遇を求めて、家を変えることがあってはならない。もし受け入れる場所がなく、使信に耳を貸さないなら、足の塵を払って証しとする。ただ宣教者の取るべき態度を述べるだけではありません。それ以上の事が語られています。彼らは終末を表す「まことのイスラエル」であるから、彼らに対して取った態度が人々の運命を決定します。宣教者が頼る力はイエスを通して与えられる神の力です。その力が宣教を行うのであって、宣教者自身の力ではありません。そして神を受け入れるかどうかは、聞く者の決断にかかっています。

     弟子たちは、イエスの権威を受けて遣わされます。「旅には杖一本のほか何も持たず」とは、遣わす方への信頼の大事さを示すとともに、宣教の現場であれこれと考えて悩むなということです。宣教の現場は、実に多様な経験をするところです。開拓伝道に遣わされる者にとっては、その拠点を得るための闘いは困難を極めます。土地や建物、その必要な資金を得る闘いは、神の御言葉への信頼を貫く闘いであります。その信頼の闘いにおいて、神のみわざがわたしたちの目には奇跡としか言い表せない経験へと導くのです。

     最後は12節で終わります。「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」(12,13節)。信じて生きることができなくなっていた多くの人々が、弟子たちの働きによってあきらめの向こう側にある希望へと導かれていきました。そこに、信じる人たちの群れが起こされたのです。

     キリストの弟子たちは、赴いていった地で人々と出会い、神の慈しみを伝えます。そのことによって、人々の中にある「信じる力」が引き出されます。社会的な階層や属性によって判断され、差別される世界ではなく、神に呼ばれた者として生きようとすることによって、新しいアイデンティティーが与えられる。キリストの弟子として生きるという使命の中で、人は神が創造された本来の姿を取り戻していくのです。そこに、新しい関わりが生まれていきます。十二人が遣わされるとき、二人ずつ組になりました。キリストの弟子は自己完結するあり方ではなく、常に相互に支える者であること、チームとして話し合い、喜びも失敗も苦しさも分かち合うように導かれているのです。

     こうして弟子たちは出て行き、悔い改めの福音を宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人を癒し、自分たちの思いをはるかに越えた成果を収めることになりました。主イエスがお遣わしになって十二人がした経験はわずかなものであったと思いますけれども、手ごたえは確かにありました。神の国を伝え、神の国に生きるということはこういうことだという手ごたえは残ったと思います。それは、神の働きの賜物でしたが、弟子たちの信仰の結果でもありました。信仰による決断と行いが豊かに実を結ぶ。弟子たちは自分の弱さに耐えながらも、福音が続けられてきた、その原点がここにあります。そしてわたしたちももう一度宣教の原点に返るのです。この時代にわたしたちができることはそれしかありません。みなさま一人ひとりの福音の証し人としての歩みに祝福がありますように。お祈りをいたします。