カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神の憐れみによって生きる

    2019年10月13日
    詩編17:1-14、ルカ16:19-31
    関 伸子牧師

     私たち人間が生きている時、さまざまな形で問われるのは、自分が死ぬ、そのことを、どう受け止めるかということです。そこで、宗教の教えは異なっても、そこに現れた共通の考え方は、天国と呼ぶか極楽と呼ぶか、呼び方は違っても、さいわいな死後の世界と、そこから落ちた者の世界、陰府とよばれたり、地獄と呼ばれたりする世界があるということです。

     聖書はそのことについてどう考えているでしょうか。キリストの教会でも、天国と地獄が語られたことがあります。聖書は、そのことについて、特に主イエスが何を教えておられるでしょうか。それを尋ねてみると、主イエスが天国や地獄についてお語りになっている場面が少ないのです。解釈の仕方にもよりますが、言ってみれば、ただ一度と言ってもよいのです。そのただ一度の珍しい主の言葉が記されているのが、今日与えられている、このルカによる福音書第16章19節以下の、主イエスが語られた物語です。

     ここでは、天国という言葉は用いられていません。22節にこうあるだけです。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」。「アブラハムのすぐそば」と訳されている言葉、本来これは、誰かが食事をする時に、その人にいちばん身近な人が座る席を意味したそうです。ですから、「その人の右胸のところに」と訳したり、また、昔からこの言葉を「アブラハムの膝」と訳す伝統があります。

     主イエスは、ただ地上で貧しい者が死後には豊かな生活をし、金持ちであった者がひどい目に遭うということだけをお語りになったのではないのです。そこから先の話をしておられます。金持ちが死んで、葬られ、陰府に行って、苦しみながら、ふと目を上げると、「アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。生きている時に悪いものを受けたラザロは今、慰められています。しかし、神がラザロを助けたのは彼の徳によるのではありません。むしろそれは、主イエスが語られた「貧しい人々は、幸いである」(マタイ6:20)という神の国の秩序が実現したのです。

     陰府の炎にもだえ苦しむ金持ちは、ラザロに水を運ばせるように頼みますが、金持ちとラザロの間には「大きな渕」、つまり裂け目があるのでそうすることができません。生前、門を裂け目にしてしまった金持ちは、今その自ら作った裂け目に苦しむことになります。金持ちは生きている間に自分の富を貧しい人と分かち合っておくべきだったのです。

     その苦しみの中で、この金持ちは、初めて、他人のことを考える気持ちが出て来ました。自分が滅んでも、せめて他の五人の兄弟が、自分と同じ苦しみに遭うのは気の毒だから、何とかしてやりたいと思ったのです。それで、アブラハムに頼んで「あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と頼んでいます。

     アブラハムはこう答えました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。神は、あのモーセが伝えた掟として、また多くの預言者たちを通じて、み言葉を語ったではないか。この神が語られた言葉は、聖書の中に記録され、あなたがたも何度もそれを聞き、読んでいるではないか。そのモーセや預言者が語り伝えている神の言葉だけで十分なのだ。しかし金持ちも負けていません。「いえいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。彼らは聖書の言葉を聞くには聞いていたのです。本気で信じなかったのです。

     19節はこう語り始めていました。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。「紫の衣」、これはいくら金持ちでも毎日着る着物ではないようです。特別な祝いの衣です。「柔らかい麻布」とありますが、これは、その紫の衣の下に着る下着のことで、これも贅沢な下着です。そして「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と書いてありますが、この「遊び暮らしていた」というのは、ある人の翻訳によれば、「彼は毎日お祭りをやっていた」となります。みこしを担いで喚声をあげているときには、前後不覚、ただひたすら祭りの喜びに陶酔します。結婚式の祝いと言えば、明日どんなに疲れ果てようとも、今はただこの喜びにひたる。明日のことも、あさってのことも忘れたように祭りに酔う。この金持ちは、ただひたすら、その陶酔の中に生きたのです。

     その毎日の祝いの傍らに貧しい人がいました。「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり」とあります。この「横たわり」と訳されているギリシア語原文によれば、人に連れて来られて、そこに横たわらされる、というのです。自分では動けません。この金持ちは、ラザロが玄関のところにいることを拒否はしていません。全身でき物でおおわれて、犬がそれをなめる。そのようなラザロを拒否してはいません。そして、「食卓から落ちる」もので飢えをしのいでいた。それが許されていたからです。ヨーロッパの食事の歴史を見ると、おもしろいことに、ごく最近まで、食卓に置かれているパンは、ただ食べるだけではなくて、汚れをふきとるために用いられました。汚れたところがあると、パンで手を拭いたり、食卓を拭いてそれを捨てた。食べるためだけのパンではなかった。そのように用いたあとで捨てられるパンをあとにして、ラザロはそこにいたのだというのです。

     金持ちは死後陰府に至り、見上げると、遥かかなた、アブラハムのふところにいるラザロを認識する。前もって知っていた、ラザロの名前を読んでいるくらいですから、おそらく金持ちは、自分の玄関にすわり、玄関を出入りする時にも、そこで見たラザロを知っていました。こういう金持ちとラザロの姿を描いた後で、主イエスは、いきなり22節で「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた」。なぜラザロは、アブラハムのすぐそばに行ったのでしょう。

     問題は、ラザロが、神の憐れみによってだけ生きていたのだという事実を、この金持ちは無視していたということです。ラザロの名が示す、「神の憐れみによってのみ生きる」ということが、自分にも当てはまる真理であることを忘れていました。この金持ちには名前がありません。しかし、名づけるならば、やはりラザロです。神の憐れみによって生きる者、それが人間の本当の姿であり、本当の名前です。

     主は最後にこう言われました。「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。主イエスは、甦った者の言葉も無力だと言われながら、甦られたのです。その甦りの光の中で、この譬え話を私たちが望みをもって読むことができる道を開いてくださいました。

     私たちは、聖書の言葉が、そのようにして大きな実を結び、力ある言葉になったことを、今、体験することができます。何の役にも立たないと言われながら、主イエスは甦ってくださったのです。何の役にも立たないと、なぜ言われたのでしょうか。人間のこころが、かたくなで、聞き入れないということを知っていたからです。それほどに愚かだったからです。しかし、主イエスは甦られました。26節に語られている「大きな淵」も、今は、もうありません。大きな淵に渡される十字架という橋ができ、甦りの出来事が起こっています。私たちは、もう滅ぼされる必要はありません。そのように神の恵み、憐れみは、私たちの思いから、いつもはみ出すほどに大きいものであることを、今私たちは感謝しながら受け入れます。私たちにもまた、ラザロという名が付けられていることを喜んで受け入れたいと思います。