カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    心の痛みを知る者

    2018年9月16日
    詩編41:1~14、マルコ14:10~21
    関 伸子牧師

     「除酵祭の第1日、すなわち過越の小羊を屠る日」、12節にそう記されています。この第14章の12節以下から、主イエスの受難に向かっての歩みが、具体化してきます。過越の祭りというのは、エルサレムの都だけで行われた。なぜかというと、この過越の祭りのときに食す小羊は、その当時は、エルサレムの神殿の庭においてだけ屠られたのです。しかも、それをすることができたのは、聖められた祭司たちだけでした。エルサレムに集まった人びとは、その祭司から小羊を受けて、自分の家に持ち帰って、晩餐の用意をした。

     エルサレムの都だけでしかできない祭りでしたから、エルサレムの町に住んでいない人びとも、この時は大勢やってきました。皆に行き渡って、しかも食べ残さないですむ人数というと、10人から20人ぐらいと考えたようです。

     その当時の食事は、半身を起こして、それは必ず左側を下にした。当然、右手が自由になるわけです。主イエスと12人の弟子、つまり13人が、ぐるりと食卓を囲んで横になるというのには、ちょっとした広さが必要です。

     この場所を提供したのは誰であったか。水瓶を運んでいる男であったと、13節に記してあります。この水瓶というのをアラム語、主イエスが、当時使っておられたアラム語で言うと、マルコスと言うのです。そこから人びとのひとつの想像が始まる。マルコス、エルサレムに大きな広間を持っているマルコス、あの使徒言行録に出てくる男ではないだろうか。たとえば使徒言行録の第1章13節、「彼らは都に入ると、止まっていた家の上の部屋に上がった」。弟子たちが一緒になって泊まっていた家があって、その家の2階の部屋に集まったというのです。15節によれば、120人ほどの人びとが、ひとつに集まっていたようです。

     そのマルコという人が、もしかするとここでも水瓶を持って登場しているのではないかと言われるのです。これは、すべて想像で、それ以外に、何の証拠もあるわけではありません。エルサレムに、多くの仲間が集まるところで、13人が集まった、主イエスとの食事を思い起こしながら、その様子を語ったのではないでしょうか。

     しかし、ここでは、弟子たちにとって、深い痛みを思い起こすときでもありました。主イエスは、その食卓において真っ先に何を語られたかというと、裏切りの予告です。席に着いて食事を始めた時に、主イエスが、まず語られたのは、あなたがたの家の中に、わたしを裏切るものがいるという言葉でした。「弟子たちは心を痛めて『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」。心を痛めた、悲しみに捕らえられた。この時、主イエスは「わたしと一緒に食事をしているもの」と言われ、あるいは20節で「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」という言い方をなさいました。日本風に言えば、同じ醤油をつけて食べた仲間という意味なのだと理解しました。それほどに深い交わりの中に裏切りが芽生えている、いや、ここで実現すると主イエスは言われるのです。

     しかも、それだけではありません。この主イエスの言葉の背景には、先ほどご一緒に読みました詩編第41編があると誰もが言います。その10節、「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べるものが、威張ってわたしを足げにします」。「わたしのパンを食べる者」、一緒に食事をしている者という意味です。

     この「わたしのパンを食べる者」というのを、10節では「わたしを信頼していた仲間」とも呼んでいます。「わたしの信頼していた仲間」というのは、この詩編は、ヘブライ語で書かれているのですが、「わがシャーロームの人」という言葉です。今日でも、イスラエルの人びとが日常の挨拶に、朝でも昼でも晩でも、「シャーローム!(平和がありますように!)」とあいさつをする。

     主イエスは、この詩編の言葉を引用しながら、ご自分と弟子たちの関係をお語りになりました。私たちにとっても、信頼関係というのは、一方では、たいへん心楽しいものですけれども、他方においては、不確かなものです。人間関係においてです。裏切られた体験の一度もない人は、おそらく存在しないと思います。聖餐の食卓において、主とともに食卓にある弟子たちが裏切り者を出したのです。弟子たちはもちろん生涯忘れなかった。みんな、イエスを十字架の上に独りで残したのです。

     聖餐にあずかるたびに、弟子たちは心のうちで深く問われたでしょう。なお主の食卓にあずかり続けることによって、教会の礼拝が、教会の交わりが、なぜ造られたのでしょうか。そのように、痛い思いを包んでしまう大きな出来事こそが、またこの恵みの食卓であったということをも確信していたからにちがいありません。

     たとえば、10節に、「イエスを引き渡そうとして」という言葉が記されています。これは「イエスを裏切ろうとして」と書くべきところであったろうに、そう書いていないということです。なぜでしょうか。何度もご自分の受難を予告なさった時に、この言葉を用いておられたからです。たとえば第9章31節に、「人の子は、人の手に引き渡され、殺される」という言葉を語っておられます。「イエスを引き渡そうとして」というのは、神のみこころに従ってという意味が込められていると見られる。

     ユダの裏切りの背後に神が立っておられる、これは、畏るべきことです。弟子たちが、その後、エルサレムのその家で、何度繰り返しても同じように思い起こしたであろう、聖餐の恵みです。私たちの聖餐の食卓も同じです。

     私たちの心が、主の痛みに答える痛みを知らなかったら、主の死もまた空しくなってしまうのではないでしょうか。しかし、主は決してそのままにはなさらない。主のほうで、私たちの心の扉を開いて、私たちすべてを響きのいい器にしてくださいます。主がそのようにしてくださることを信じるだけです。その時に、私たちは生きることができるのです。お祈りをいたします。