カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    見るべきものに目を向ける

    2021年4月11日
    イザヤ書65:17~25、マタイ28:11~20
    関 伸子牧師

     復活の主イエスが墓を訪ねた女たちに現れ「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言いった後の女たちと番兵たちの対応はまったく違っていました。

     祭司長たちは、イエスの弟子たちがやって来て彼を盗み、「彼(イエス)は死人たちの中から起こされた」と言うかもしれないからという表面上の理由で、イエスの墓に番兵を配置することを総督ピラトに要請した。しかし、イエスが復活させられた後、今度は逆にイエスの墓にイエスがいないのは、弟子たちがやって来て彼を盗んで行ったためだとした。この祭司長、律法学者のやり方は、私たち自身にも身に覚えがあるのではないか。私たちも理解を超えたことが起こったとき、しばしばそれを見ないことにし、手に負えそうにないことには関わらないようにし、都合の悪いことはなかったことにしてしまう。祭司長たちは、秘密裏にうまく処理をしたように見える。しかしそれは何ひとつ本質的な解決をもたらさない。

     一方、女性たちはキリストに出会う。恐れは信頼に変わり、大きな希望と喜びが生まれる。ある人々は言うであろう。「キリスト者は現実から目を背けている」と。私は言いたい。「キリスト者は、見るべきものに目を向けるのである」と。
     
     出来事を伝えた番兵は見るべきものに目を向けていただろうか。番兵たちは金をもらい、権力者の命令に従い、復活の証人となることをやめた。番兵たちに働いたのは、金への欲望、権力ある人からの命令、自分の立場の保全。私たちも常にそのような力に囲まれているのである。しかし、私たちも新たにキリストの復活の使信を受け取った者たちである。この知らせとどのように向き合うか。それが私たちに問われている。

     復活のイエスは、女たちに現れ、弟子たちにガリラヤへ行くようにと告告げよと命じる。ガリラヤの山で、復活のイエスは弟子たちに近づく。彼らはイエスにひれ伏しますが、疑いも生じている。復活というものがいかに受け入れがたいものであるかを示している。この「疑う」は、もともとは「二つに分かれる」ことを意味し、新約聖書ではもう一度だけ第14章31節で使われています。夜、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、風を恐れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロはイエスのもとにいたいと思う一方で、現実に恐怖を覚えています。このような状態が「疑う」という言葉で表されています。

     しかし、疑うことは必ずしも悪いわけではない。このあと弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と告白している。今日の箇所でも、疑う弟子たちにイエスが近寄ります。イエスは疑いを乗り越えた者に近づくのではなく、疑いを残す者に近づかれる。この近寄るイエスの言葉が疑いを乗り越えさせます。

     主イエスは「私は天と地の一切の権能を授かっている」と宣言し、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束します。権威を持ち、常に共にいる「私」が与える指示は、「弟子にしなさい」という命令です。 主イエスは、すべての人々をご自分の弟子にするために、この生きた関係を保持している父、子、聖霊の名によって洗礼を授けることを弟子たちに命じている。さらにイエスはすべての自分の命令を守るように教えることを説く。イエスは律法を実現するために来たのであり(マタイ5:17)、その律法の要旨は、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言とが、かかっているのだ」(マタイ22:37b~40)。イエスの命令のすべてはこの二つを中心としている。

     マタイは、天使がマリアの夫ヨセフにイエス・キリストの誕生を告げた時に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれると呼ばれる」と語り、この名は「神は私たちと共におられる」という意味である。神が共におられるしるしとして、イエス・キリストがこの世界に送られた。こうして、イエスの誕生の時に神が与えた「私たちと共に神はいる」という約束と、「私は、二人か三人が私の名前において集められているところでは、その人々の真ん中にいる」というイエスの約束は、日々実現していき、父、子、聖霊の名によって洗礼を受けた私たちの名が、神の命の書に神自身の光によって書き加えられる。

     弟子たちはやがて、さらに聖霊の力を受けて、この主イエスの命令の実現に本格的に着手するのであった。弟子たちはガリラヤで働くように命じられる。ガリラヤは周縁化した地域であり、異邦人の世界に近い。これは私たちにとって規範となる。私たちはここから出発して、貧しく小さくされている人々に福音を告げる。主はいつも共におられることを覚え、私たちはこの礼拝が終わって、コロナ禍の現実のある生活の現場に遣わされていきたい。お祈りをいたします。