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イエスとは何者か
2026年3月8日
イザヤ48:1~8、マルコ8:27~30
関 伸子_牧師
主イエスが弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と質問され、これに対してペトロが「あなたは、メシアです」とお応えしたことは、マルコによる福音書のちょうど中頃に記されており前半のクライマックスであり、ひとつの重要な箇所であると言えます。
とても興味深いことに、このことが起こったのはユダヤではなく、フィリポ・カイサリアという地方であり、しかも旅をしている「その途中」と記されています。フィリポ・カイサリアは、ヘロデ大王からその子フィリポに与えられた地域で、ガリラヤ湖の北方40キロメートルに位置し、ヨルダン川の水源地でもあります。白川義員という写真家が『新約聖書の世界』という大きな写真集を作り、主イエスが歩まれた足取りをほぼ辿ってその地の写真を並べています。この写真集のフィリポ・カイサリアというところに写真が二枚あり、その一枚は、滾々と水が溢れ出ている泉の写真です。まるで日本の風景のようにも思います。主イエスが弟子たちとの対話をそのような自然の豊かさの中でされたことを不思議に思いました。
わたしたちは信仰告白と言うと、エルサレムとか神殿といった所でなされるのが相応しいと考えるのではないでしょうか。ところが礼拝の場所、神がそこにおられると考えられる所ではなく、周辺の、しかも外国語の名がつけられているような地方で旅の途中「あなたがたは私を何者だと言うのか」と主イエスは問われるのです。
わたしたちは信仰を告白するのは教会の会堂とか礼拝の中で求められると予測しやすいのですけれども、実は主イエスはわたしたちの日常の生活の、むしろ神とかキリストとかが問題にされないような世俗的なところで、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われているのです。わたしたちの生活の中で、礼拝の時はもちろんですが、毎日の生活の途中で、真実に「あなたは、メシアです」と告白しているかと問われることが問題なのです。
ここでイエスが弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちはこう答えます。「洗礼者ヨハネだと言っています。ほかに、エリヤだと言う人、ほかには、預言者の一人だと言う人もいます」。弟子たちの答えによれば、人々はイエスを預言者の系列(エリヤ、洗礼者ヨハネ)に結びつけています。この問いは、偽りの政治家、メシア主義に対してではありません。以前からイエスに従いイエスの話を聞いて来た彼らがこのように問われたのです。
次の問いは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。主イエスがその答えを聞きたいと思っておられる。わたしたちがお答えすることを願っておられるのです。それは、今でも、同じことをわたしたちから聞きたいと求めていらっしゃるということです。
ペトロが皆を代表して答えます。「あなたは、メシアです」(29節)。ペトロはまっすぐに答えました。ご名答。しかしイエスはほめることもなく、むしろ誰にも話すなと戒めるのです。メシアという評判だけが独り歩きしても何の意味もないということでしょう。実際、この直後に明らかになるのは、ペトロがイエスのことを何もわかっていたかったということです。しかも自分がわかっていないということをわかっておらず、イエスの行く手を阻もうとさえしたのです。
弟子たちが期待するのは、異邦人による支配からイスラエルを解放する現世的な勝利者としてのメシアであり、十字架に掛けられて命を落とすメシアではありません。イエスは確かにメシアですが、人々の期待に沿ったメシアではありません。
この先のところで、真剣にキリストを告白しようとする弟子たちに、イエスは初めて御自分の受難と復活を明らかにされました。それはギリシア語のデイ(必ず・・・・・・することになっている)が示すように神による必然でした。神の計画がそこにあり、自分はそれを成就するために身をささげる。これはどうしても弟子たちに話しておかなければならないことだったに違いありません。深い谷底へと降りて行かなければ人間の解放はありません。それをまだ理解できない弟子たちです。しかし、やがてわかる時がくる。そのとき、キリストに従う者たちもまた十字架を負って進む道を避けてはないのです。
わたしたちのキリスト告白には限界があります。だから「イエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と、沈黙命令が出されました。「戒められた」。「叱りつけた」が直訳です。この時代にはふつうは「罰を課する」という意味に用いられました。マルコは一貫してこれを、相手を厳しく叱りつける、という意味で用います。特にイエスを主語とする場合はこの箇所(この節と32、33節)を別にすると、悪霊を叱りつける場合にしか用いません。つまりこの場面のイエスは抵抗する悪霊に対するのと同じような仕方で、弟子たちを叱りつけた、というのです。
イエスをキリストと告白する者はその権威を承認する者です。その人がどんな人であっても、神がその人の中にもう住んでくださる。その人も神の中に住む。主イエスが傍らに立つその水源地から溢れる水が、大きなヨルダン川の流れを作るように、主イエスは、愛の歴史を今ここで新しく始めるための折り返し点に立たれました。そして、弟子たちをも立たせるために。ただひたすら、「自分は何者か」ということを教えるのです。神のことを思うということは、わたしのことを思い続けること。わたしのことを思い続けて、わたしと一緒に歩いてみなさい、主イエスは十字架を負った。教会を造ったのです。そして礼拝の歴史を始めたのです。わたしたちもまた、ペトロに続き、弟子たち、キリスト者たちの大きな川の流れに加えられ、このように皆で一緒に主の道を歩いて行くことができるさいわいを覚えて感謝します。お祈りをいたします。