カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    主イエスの新しい掟

    2022年5月15日
    詩編95:1~11、ヨハネによる福音書15:1~11
    関 伸子牧師

     主イエスは「私はよい羊飼いである」と言われました。今日の箇所では「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と語られます。この御言葉は聖書の中でも有名なものです。ヨハネの特色ある表現「私は・・・・・・である(エゴー・エイミ)」の宣言です。ぶどうとオリーブは、パレスチナ地方では、いたるところに栽培された植物ですから、聞く者にとってはとても身近なたとえであり、それだけにリアルな、また強い響きを持つことばとして受け取られたことでしょう。
     
     「まことの」という言葉には、旧約時代のイスラエル民族がぶどうの木にたとえられたことを想起させます。「あなたはエジプトからぶどうの木を引き抜き 諸国民を追い出して、これを植えられました」(詩編80:9)、と歌って、神がイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導きだしてくださったことを回想しています。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪い実を結ぶ野ぶどうとなってしまったのです。それは偽りのぶどうの木です。イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っています。

    「神の民」は血族関係におけるイスラエルではなく、イエスにつながって生きる生命共同体なのです。「まことの」は、不完全に対する完全、あるいは純粋を意味します。新しいイスラエルの主は、完全なお方です。そして、イエスの父はそのぶどうの木の所有者であり、その生育を自由になし得るのです。

    「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ばないものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2節)。よい実を結ばせるためには、伸びほうだいにするのではなく、剪定をしなければなりません。神の子とされるとは、好きなものが与えられ、安穏な生活ができるというものではないのです。そこでは、さまざまな苦難を受けていかなければならないだろうということを預言されたのです。ときには殉教する人があり、また自分の持ち物を失うことがあるかもしれないと。失うということは、信仰生活の一つの試練です。信仰によって与えられるものもありますけれども、また、失うこともあることを忘れてはなりません。しかし、それは、多くの実をみのらせるために神がなさるのだと、主イエスは言われたのです。

     「私につながっていなさい」(4節)。この言語は、「つながる」「とどまる」「・・・・・・にある」「宿る」の意味を持ちます。動かされないでしっかりと留まっている場、それはまことのぶどうの木であるイエスです。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)は、イエスと弟子の関係がたとえられています。枝が実を結ぶのはぶどうの幹につながることによるのです。枝は、その木から生命を授けられ成長と結実の力を受けるからです。かつて国連事務総長であったダグ・ハマーショルドは、その激務の中で自己と対話し続けた記録として『道しるべ』という書物を残しています。彼は激務の中で信仰を追い求めていた人でした。スエズ動乱の時に、みごとに職責を果し、自室にもどるとこんなことを書くのです。「神の名が崇められんことを、私の名ではなく。神の国が来たらんことを、私の国ではなく。神の意志が行われんことを、私の意志ではなく」。日々あくせくと働く私たちも、ぶどうの幹につながる枝として祈りつつ、主のみ名が讃えられる働きをしたいと思います。

     ここまで、「ぶどうの木につながっている」ということ、「実を結ぶ」ということは、一つのイメージとして語られてきましたが、それは単に内面世界での関係というものには終われないことが「愛」という新しい焦点によって明らかにされます。

     キリストの愛にとどまること。お互いに愛し合うこと。それは、命をいつくしむこと。他者の存在を守ることです。「私の愛の中にとどまりなさい」という御言葉によって、一瞬一瞬を生きていくことができると信じ、愛は私たちにすべてを与え、決して私たちを捨てないことを信じ、この信仰によって、私たちは、キリストにゆだね、愛のみわざが私たちの中で行われるのです。「まことのぶどうの木」の「まことの」は本当にありがたいことです。この「まこと」があるから、私たちこちら側での結果を心配しなくていいのです。主イエスという木にはずれはない。ここにキリスト者の栄光があります。それは、パウロが「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるのです」(ガラテヤ2:20)と言い表した「主にある」歩みです。

     私たちは小さな者ですけれども、私たちを通して神は、そしてキリストは働いておられるのです。それを信じる時、私たちの内に喜びがわきあがってきます。主イエスにしっかりとつながって豊かに実を結ぶ歩みをなしていきましょう。
    祈ります。