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つながって豊かに実を結ぶ
2026年5月3日
詩編95:1~11、ヨハネによる福音書15:1~10
関 伸子_牧師
羊とぶどうは旧約聖書以来よく用いられ親しまれてきたたとえでした。神の愛する民イスラエルはよくぶどうの木やぶどう畑にたとえられて来ました。イザヤ書第5章1節は「私は歌おう、私の愛する者のために ぶどう畑の愛の歌を」と始まります。主なる神は肥沃な丘にあるぶどう畑をよく耕して、「良いぶどう」であるイスラエル民族を植えた。しかし、実ったのは「酸っぱいぶどう」でした。それはイスラエルが神に背いたことを表しています。神はそんなぶどう畑は焼かれて荒れるにまかせ、もはや「雨を降らせるな、と私は雲に命じる」と語られます。
それはわたしたち日本人には想像もできないほど彼らの生活に密着していたものでした。羊は言うまでもないでしょう。あのヤコブは羊の所有者でしたし、ダビデは実際に羊飼いでした。詩編第23編で、神は羊飼い、そしてイスラエルの民は羊にたとえられています。そして主イエスの誕生にあたって、ルカによれば、いちばん最初に赤ちゃんイエスに出会ったのは羊飼いでした。
このような旧約の背景に立って、ヨハネによる福音書第15章には、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(1,2節)と始まる主イエスの言葉があります。原文では強調点が「私」に置かれているので、ここはむしろ「まことのぶどうの木は、この私である」と理解して方がよいと思います。主は「偽りのぶどうの木」に対してご自分を「まことのぶどうの木」として主張し、イスラエルの民が神の期待に反して雑種のぶどうの実や腐った実を結んだ偽りのぶどうの木であったことを強調しているのです。
ところで「つながる」という言葉が「いる」という言葉で訳されているものもあります。明治時代に生まれたカトリック教会の翻訳でラゲ訳によると、「我にとどまり、我がこれにとどまる人、これが多くの実を結ぶ者なり」となっています。わがうちにとどまり、わたしがその人の内にとどまる、そのような人は多くの実を結ぶのだというのです。つまりここで「つながる」と訳されている言葉は「とどまる」という意味の言葉です。この言葉の持つ意味は深いと思います。たとえば「つながる」という言葉で考えるときには、体の一部がつながってもいい、心の一部がつながってもつながっているということになるかもしれません。教会とわずかな糸でつながっている、キリストとわずかな糸でつながっている。それでもいいと思うかもしれませんけれども、ここではそうではありません。つながっている、というのは相手の〈中にいる〉のです。〈相手の中に住む〉。住み続けるのです。
そこでもうひとつ心に留めるべきみ言葉があります。主がわたしたちとつながっていてくださるという5節の言葉を繰り返すかのように、7節にこういうみ言葉があります。「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。つまりわたしもその人につながる、わたしがその人の中にいるということは、「私の言葉」がその人の中に「とどまり続ける」ことだと主は言われるのです。
既に3節にも主はこう断言してくださっています。「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。わたしたちは、よい実を結ぶように、自分で一所懸命、清くならなければならない、と思うかもしれません。また、そうならなければ、自分は切り捨てられるのだろうかと不安になるかもしれません。しかし主イエスは、「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」と言ってくださいました。命令以前に、事実として、そう宣言されたということを心に留めたいと思います。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。枝であるわたしたちがイエスに結びついて実を結ぶことは、農夫である神の栄誉であり喜びです。農夫はまさに良い実りを得るために、額に汗して労するのです。だからわたしたちが立派な良い実をたくさん結ぶ時、神の喜びは満ち溢れます。良い実こそ神の誇りと誉れのしるしなのです。
8節では「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」と主が語っておられます。このお言葉の通りに生きることが清いということではないでしょうか。清いということは、イエス・キリストにおいて見えてきているものです。ただしっかり主イエスとつながっていればよいのです。そして主イエスを見つめることが大切なのです。そのとき実が豊かに実り、神の栄光があらわされるのではないでしょうか。そのように信じ、行動した多くの人々がいます。マルティン・ルーサー・キング牧師、南アフリカのマンデラ大統領、韓国の金大中、マザー・テレサなど。彼らは自分の力に頼らず、ただ主イエスに目を向けたのです。
わたしたちは小さな者たちではあるけれども、わたしたちのようなものをも通して神は働いておられます。主イエス・キリストがわたしたちを弟子として選んでくださる。ぶどうの枝としていてくださる。わたしたちの小さな歩み、家庭の歩み、職場での歩みの中で、どんどん実が実っていく。それを主が喜んでくださる。それを信じる時、わたしたちの内に喜びがわきあがってきます。キリスト者であるのは喜びなのです。祈ります