カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    麦粒の恵み

    2024年3月17日
    イザヤ63:1~9、ヨハネによる福音書12:20~26
    関 伸子牧師
     
     カナの婚礼で示された「最初のしるし」から始まり、ラザロの復活という「しるし」によってクライマックスに達するヨハネによる福音書第2章から12章は、「しるしの書」と呼ばれます。第12章19節までを貫いているのは「私の時はまだ来ていません」という主題です。しかし、今日の箇所では「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と宣言され、ついに「イエスの時」が来たことが示されます。

     「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」(20節)。「祭りのとき」とは過越祭のことです。通常、過越祭を祝うためにエルサレムに上って来るのは選民であるユダヤ人たちなので、異邦人であるギリシア人たちまでがやって来たことは、まさしく、この世の者たちがイエスを追って来たことを意味しています。彼らは自分たちに身近に感じられるフィリポを選んで懇願したのかもしれません。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)。「お願いです」は、最上級の敬語「キリエ」(主よ)を意訳したものです。イエスへの尊敬が弟子にまで及んでいるのでしょう。それを聴いたフィリポは、彼らをそのまま主イエスにお伝えしたのではなく、弟子の一人であるアンデレに相談し、アンデレと二人で、イエス・キリストにその旨を伝えるのです。

     この時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た・・・・・・」と答えています。奇妙な答えですけれども、イエスがこのように答えたのは、人が見るべきイエスとは外面的な容貌ではなく、十字架に上るイエスだからかもしれません。

     「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(24、25節)。

     主イエスは他の機会にも麦についてよくお語りになりました。たとえば種まきの話をなさいました。この種というのも麦の種であろうとまず考えることができます。麦が成長していくとき、そこに毒麦が混じっているという話をなさることもあります。ナザレの村の周りにいくらでも麦畑がある。物心ついたばかりの主イエスが、大人たちが種蒔きに精を出しているのを見て不思議に思われた、そんな体験もあるのかもしれない。麦が耕された黒い土の中に落ちて姿を隠してしまう。見えなくなる。死んだとしか思えない。そして何もなくなってしまったように思われるところに緑の芽が噴出し、そこに捨てられたはずの粒と同じ粒がたわわに実り、自分の養いになる。不思議なことだと思われたかもしれません。やがて明確に神のみこころ知るようになった時に、自分がまさにその一粒の麦になることこそ、神の御意志であることを知るようになったのではないでしょうか。
     このような栄光を知る者の前に二つの道、すなわち自分の命〈プシューケー〉を「愛する」道と「憎む」道が置かれています。自分のプシューケーを愛するとは、この命に固執し、それを自分のために使おうとする生き方のことです。一方、憎むとは命を粗末にすることではなく、この世で与えられた時間を永遠の命〈ゾーエー〉のためにささげる生き方のことです。主イエスはその模範となられました。

     2011年3月11日に東日本大震災があり、今年の1月1日には能登半島で大震災があり、今も見つかっていない方の捜査や避難所を整えることが続いています。まことに命と死は隣合わせです。そして命は多くの犠牲の上に成り立っています。私たちはひとりでは生きられません。多くの支え、家族の愛情や友の助けも必要です。命にはコストがかかる。その最大のコストである犠牲こそ、主イエス・キリストの十字架ではないか。

     私たちは「一粒の麦」が死ぬことの重みをしっかりと受け止める必要があります。共観福音書ではゲッセマネの園のイエスの苦しみの祈りの伝承から来ています。ヨハネにおいても十字架は苦難であり、犠牲であり、暗黒です。しかし、ヨハネでは共観福音書、特にマルコとは違い、十字架は人を救い、神と己の栄光をあらわすというイエスの地上の業の完成とみられています。それは死の暗闇に支配されるためではありません。あくまでも光の中を歩むためです。しかし、「光は闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と言われるように、死の暗闇の中において光より鮮明に経験することができます。十字架の勝利が、ボンヘッファーが言う「安価な恵み」にならないように、不安の中で悶え苦しむイエスと共に歩むことが求められています。その歩みを通して私たちは「光の子」となれるのです。

     神からの答えがひびきます。「私はすでに栄光を現わした。再び栄光を現わそう」(28節)と。イエスの十字架に至るまでの父への服従によって父なる神の栄光があらわされるように、私たちの死に至る十字架のへの信仰と服従を通して神の栄光があらわされると、ヨハネは今も私たちに語りかけているのです。

     「一粒の麦」の言葉は、生きることの意味を教えるものです。ひとりの人イエスの死は、弟子たちに大きな衝撃と共に影響をよびおこし、その弟子たちの証しを通して、その後の歴史に大きな影響を与えつづけることになりました。先週水曜日、教会員のお母様の葬礼拝が行われました。OKさんは主イエスに従い、一粒の麦として天に召されました。イエスに従って子どもたちや隣人のために生き切った生涯でした。私はイエス・キリストが命の源であり、その命が次から次へと広がっていくことを思うのです。その命に私たちも連なるように招かれています。そして、そこで生かされた者がまた、他者を生かしていくのです。お祈りいたします。