カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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    神の国の幻に生きる

    2026年5月24日
    詩編122:1~9、使徒言行録2:1~11
    関 伸子_牧師

     五旬祭の日が始まり、主イエスに従う者たちは集まって、祈り、待望しています。新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まります。天からの音が家に響いたとあります。「響き」は原文では「満たす」を意味する語が用いられています。さらに、一同は聖霊に「満たされ」(使徒2:4)と述べられ、「満たす」を意味する語が繰り返されます。それはこの出来事が、復活の主イエスが約束した言葉の成就だからです。

     弟子たちの上に「炎のような舌」がとどまり、彼らはほかの国々の言葉で話だしました。これを聞いた人々は「私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」と驚きます。ここで「舌」とか「言葉」と訳されている語は、原文では同じです。

     創世記第11章を読むと、人間がバベルの塔を造り始めたとき、神は降って来て、言葉をばらばらにし、互いに聞き分けられないようにしました。神がこのように行動したのは「天まで届く塔のある町」の建設そのものが悪だからではありません。むしろ、それによって「有名になろう(直訳「自分たちの名を造ろう」)としたからです。人間が自分たちの名前にこだわるとき、神の名が忘れ去られ、神のいない社会が現出しかねません。そこで神は建設を中断させました。自分たちの名前を造ろうとすれば、世界は分裂してゆきますが、天から降った舌を用いて、霊が語らせるままに話すとき、一致への道が開かれます。この一致は相手の言葉に自分をあわせる一致であって、自分の言葉に他人を引き込む一致ではありません。わたしたちの生きる世界は確かにさまざまな分裂に傷ついています。しかし、霊に包まれた一致の可能性を信じることがすべての始まりとなります。

     この出来事は、そこに居合わせた人びとを驚かせました。「さて、エルサレムには天かのあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた」(5-6節)。「この物音に大勢の人が集まって来た」とありますから、「あの激しい風は何だろう」、「あの炎のような舌は何だ」とか、そういう驚きもあったかもしれませんが、それが人びとの驚きの中心にはなりませんでした。この人びとは教会の「言葉」に対して驚いたのです。

     ユダヤ人という民族は、今でも同じような状況がありますが、かなり早い時代から国外に移住する者が多かったようです。政治的、経済的理由など、いろいろな理由があったと言われています。「ディアスポラのユダヤ人」という表現があります。「散らされたユダヤ人」という意味です。ユダヤ人というアイデンディディを失うことなく、しかも各々の住むところの生活に親しみ、たとえ旧約聖書が書かれたヘブライ語を話せなくても、それでもそういうユダヤ人たちがエルサレムを慕い、今は再び憧れの都に住むことができる。そういう人たちが、自分たちの大切な祭りの中で思いがけない出来事に遭遇し、こう言ったのです。
    「なぜこの人たちは、ガリラヤ人なのに、自分たちの言葉を語っているのだろうか」というのですが、本当の理由はひとつしかありません。聖霊なる神が、教会を通して、ひとりひとりに語りかけてくださったのです。「ガリラヤ人」は「異邦人のガリラヤ」と言われ、「ガリラヤから預言者が出るものではない」(ヨハネ7:52)と言われるような地方の出身者であったことを忘れてはなりません。聖霊はこのような「ガリラヤ人」の言葉を器としてあえて選ばれました。ガリラヤ湖の漁師たちや、貧しい大工に一家を中心とする一群に、どれほどの雄弁と説得的な論理を期待できるでしょうか。ひたすらに恵みと憐れみにしか生き得ない者に御言葉を託されたのです。そこにいたユダヤ人たちは、その神の新しい語りかけに触れたのです。このときだけ霊が働いて、あのバベルの塔の呪いを取り去ってくださった。今ここではひとつの言葉を聴いて、ひとつの群れを造っている。しかし、このような言葉の奇跡はこのときだけだったと思います。

     聖霊はあなたの内側に働く神の霊です。内側から燃やされる時、初めて、これまで重荷でしかなかったことが、重荷でなくなります。神はわたしたちを内側から燃やそうとしておられます。神はわたしたちを慰めようとしておられます。聖霊は慰め主、助け主です。慰めが必要な時、どうしようもない時、神は内側から働き、慰め、励ましてくださるのです。現実の世界はいつもわたしたちを不安にします。しかし、慰められた者は、この世界以上の現実をこえたものを見ることができます。聖霊を受けた人には、神と共に歩む人生が拓けてきます。神が慰めてくださるなら、何物もわたしたちを破壊することなく、何も失われず、この世界に何ひとつ無意味なものはありません。

     ナザレでイエスの説教を聴いた民衆は、「この人はヨセフの子ではないか」とあざ笑いましたが、霊に促されたペトロの説教は熱心な改宗者を生み出した、とルカは喜んで報告しています。「天かのあらゆる国から帰って来たユダヤ人」は、今や、福音のもとに来ます。この終わりの日々には、ルカによる福音書第2章32節が予告しているように、真のイスラエルの民が回復され、使徒言行録第11章18節にあるように、万民を照らす光が与えられるのです。聖霊はあなたにも与えられています。そのためにはたった一つのことが必要です。真の慰め主なる、力の主をすべての先にすることです。第一に神を静かに仰ぐことです。「神があなたがたのために闘われる。あなたがたは静まっていなさい」(出エジプト14:14)。しかし、この言葉を聞いた人はついに立ち上がりました。ただ神が働き、神が命じる時、立ち上がりました。ただ静かに待つ人が、この立ち上がる時を知るのです。祈りをいたします。