カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神の言葉の聞き方

    2019年2月17日
    箴言3:1~8、ルカによる福音書8:4~15
    関 伸子牧師 

     種をまく人のたとえ話は、マタイ福音書、マルコ福音書とルカ福音書の3つの福音書が書きますけれども、ルカ福音書は独特の書き方をしています。8節で主イエスの語っておられるたとえで言うと、み言葉の種をまくというとても大切な仕事のことです。

     さてルカは神の種の蒔かれる土壌に4種類あることを告げます。そのいずれの土壌にも聞くことが先行しています。
    第1のカテゴリーは、信じるに至らない人。「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」(5節)。「人に踏みつけられ」(5節)という表現は、「塩味を失った塩」のたとえの中でも使用されている(マタイ5:13)。効用を失いもはや「何の役にも立たなくなった」からである。貴重な宝物である神の言葉も全く無用のものと見なされ、ゴミ箱に捨てられてしまう。次に悪魔がやって来る。悪魔は蒔かれた種を心から奪い去ってしまい、人間の心にはもはや神の言葉の痕跡すら残らなくなる。神の言葉は、傍観しているわけにはいきません。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)からです。

     ルカのたとえの解説の中で2箇所も「神の言葉」と「信仰」を結びつけていることに注目したいと思います。ルカはイエスが宣教生活を開始する前に荒れ野で40日間悪魔から試みられたことを伝えている。悪魔はイエスを神から引き離し、御父のお定めになった十字架の道を歩むことを拒否させようと試みます。サタンは12人の1人であったユダの中に入り、イエスの裏切りを画策させます。またイエスが言われたことによると、サタンは使徒たちを「小麦のようにふるいにかけることを神に願う」(ルカ22:31)。サタンに打ち勝つには主イエスの力が必要です。

     第2のカテゴリーは、一時しか信じない人です。「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」(6節)。たとえの解説は13節。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。

     種が岩の上に落ちたのです。この種は、生え育ちます。ルカは、他の福音書が「言葉を聞いた時、すぐに喜んでそれを受け入れる」と記しているところを、ルカは「聞いたとき、その言葉を喜んで受け入れる」と書きなおして、「言葉を受け入れる」ことを強調している。しかしながらこの喜びも一時的なものでしかない。その人たちは「しばらくは信じても」試練の時には落伍する。主は、眠り込んでいる弟子たちに向かって「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と厳しく命じられる(ルカ22:46)。このようにルカは、御言葉を聞いて喜んで受けた人も、祈りによって誘惑に打ち勝たないと、信仰を保ち続けることが出来ないと主張する。ルカはこれを「根がないので」と言う。私たちが御言葉のうちにますます根をおろすように努力しないと枯れてしまうのである。
    第3のカテゴリーは不完全なキリスト者。「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」(7節)。たとえの説明は「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。信仰と茨は一緒に育つのです。注意が必要です。

     第4のカテゴリーは、美しい土地に落ちた種。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(8節)。たとえの解説は15節「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。

     「良い土地」とは「美しい、善い心」(岩波訳の直訳)のことである。この心で「聞きながら(言葉を)保ち忍耐をもって実を結ぶ」のです。マルコ福音書、第14章3節以下が伝えていることですが、主イエスの死も近くなったあるとき、高価で純粋なナルドの香油を、惜しげもなく注いで、ご自分のからだをぬぐった女の行為も、主は同じ言葉で、ほめられました。「この人はできるかぎりのことをした」。ある英語の聖書は、はっきり訳しました。この女はわたしに美しいことをしてくれたと。美しい良い心というのは、この主イエスの美しい恵みに相応する心です。私たちの心は、どんなにしばしば、この麗しさから遠くなることでしょう。

     「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである」(10節)。

     さてここには神の国の秘義が語られているのです。その秘義は、弟子たちも、初めのうちは分かりません。それは、イエス・キリストの十字架と復活の秘義だからです。つまり神の国は、何の障害もない、苦しみも問題もないものではありません。多くの種は駄目になります。しかし、そんなことで神の国は中断されたり、よろめいたりしません。多くの種は駄目になるかに見えます。しかし、神の国は必ず十字架を通って、復活に達します。信仰は、そのように戦い、障害を乗り越えてゆく事態に他なりません。良い地に落ちた種とは、恵みにのみより頼む人です。誘惑の力、悪魔の誘いにもかかわらず、ついに勝利します。ですから、このたとえは、神の国の秘義を語っているのです。主イエスは、これらのことをお話しになってから、声をあげて言われました。「聞く耳のある人は、聞きなさい!」と。

     私たちが、自分の経験、思想、才能、自分の働きに酔って終わるのではなく、また、何もないからと呟きつづけることでもなく、神の言葉に聞きつづける忍耐と、うるわしさに生きる教会の歩みを続けていけますように。お祈りをいたします。