カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神の栄光をほめたたえる

    2019年12月8日
    詩編147:12~20、ヨハネ5:31~47
     関 伸子牧師 

     「あなたたちは、まだ父のお声を聴いたこともなければ、お姿を見たこともない」。ヨハネ福音書第5章37節に記されているこの主イエスの言葉は、この時主イエスを取り囲んでいたユダヤの人びとに対する言葉です。しかし、そのまま私たちにも当てはまることを語っておられます。私たちは主イエスの父である神の声を聴いたこともありません。姿を見たこともありません。それなのに私たちは神を信じることができています。まさに信仰は「見たこともない神を知る」、そのようなものであることを否定することはできません。そしてこれはとても不思議なことです。神を見たこともない、そのみ言葉を聞いたこともないけれども、信仰が成り立つ。だからこそ、いつの時代においても、どこにおいても、誰にも、信仰は可能になると言うことができると思います。

     34節後半に「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく」と主イエスが言われます。ここに記されている言葉はずいぶん厳しい言葉ですけれども、そのような厳しいきつい言葉も、あなたがたが救われるためだと言われます。聞いたことも見たこともない神を信じることができる道に、あなたがたを招くためだとおっしゃったと聞くこともできる言葉です。

     主イエスはここで「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と語っておられます。ここに「証し」という言葉が出てきます。あるいは「真実」という言葉が用いられていますけれども、これらはまず何よりも法廷における言葉、裁きの場における言葉です。裁判をするためには当事者もまた証人として立てられるということがあると思います。「その証しは真実ではない」というのは、訳者によっては「その証しは信用できない」という訳し方をします。私たちがニュースを新聞で読み、テレビの解説を併せて聞いて、とても複雑な思いをするところがあります。信頼できる言葉だとは思えない。それが私たちのつらいところです。

     主イエスの証言は、実は主イエスご自身が裁き手としての証言です。ユダヤ人が裁判官であることははっきりしているようです。しかし、そこでも実は問われているのは、主イエスこそ真実の裁き手であるかどうかということです。

     そういう意味では、39節の言葉を心に留めておきたいと思います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。口語訳では「調べる」でした。ここに「研究」という言葉が用いられるとそぐわない気がします。そこでギリシア語の原文を調べたり、この箇所についての注解を調べて改めて知りました。これは研究するとしか訳せない専門の用語だとある人ははっきり説明しています。永遠のいのちがあるかないかを学者として調べて決めるのです。ところが、あなたがたは永遠のいのちが見つからない。なぜかというと、「聖書はわたしについて証しをするものだ」。聖書は〈いのちを与えるわたしのこと〉を語っているのに、そのわたしを抜きにして聖書の中にいのちを求めても見つかりっこないのです。

     今日の説教の準備をしている間に、あるアメリカ人の牧師が書いた、牧師の聖書の読み方や祈りの生活について語っている本を読んで、衝撃を受けました。詩編第40編7節にこういう言葉が記されています。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました」。その牧師は「わたしの耳を開いてくださいました」という言葉を、自分でわざわざヘブライ語から訳し直して、「耳をもう一度新しく掘ってくださった」と訳したのです。この「掘ってくださった」というのを、ダッグ・アウトという英語で表現しています。この英語が、私たちにとっては、野球用語として耳慣れたものであることは印象的です。両軍の選手たちが控えているところは、土を掘って低くしてあります。

     罪を戒める聖書を読んで罪が分かったら、罪の償いをする物を神に奉げなければいけないと、おきてに書いてある通りにしようとした。けれども神はそれらのものを受け入れませんでした。何をなさったかというと、耳をもう一度新しく掘ってくださった。耳が塞がっていたために神の言葉を聴くことができなくなっているのです。神の言葉がよく通じるようにしてくださいました。併せて詩編第40編8節以下を読んでみましょう。「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです」。

     神の声が聞こえ始めました。神が耳を開いてくださった。その時に大発見をする。聖書の中にはわたしのことが書いてある。わたしのことを神が語っていてくださる。その神の声を新しく聞き始めるのです。その時に、わたしの神よ、そこで聞こえてきているあなたが語られたみ旨を行うことのみを望み、大いなる集会で正しく福音を語って唇を閉じることなく喜びに溢れて生きる。そう歌うのです。

     主イエスはユダヤ人たちの心の中にあるものを見抜いておられますが、そこでとても大事な鍵の働きをしているのは41節と44節に語られている「誉れ」という言葉です。ここで用いられているギリシア語は「ドクサ」という言葉です。判断の結果、ある人をほめたたえる。それはその人にとって名誉、つまり「誉れ」です。ユダヤ人が互いに相手からの「誉れ」を受けることに心を奪われるようになっている、と主イエスは言われます。そしてその結果、前に遡って42節によれば、「あなたがたの内には神の愛がない」という判定になっています。そうなりますと、私たちにとって大切なことは、〈神のまなざし〉の中にある自分、そこに見えて来る主イエスも見抜いておられる自分の罪に気づくということです。そのためにこそ聖書を読むのです。

     信仰告白・洗礼を受けられる方たちは牧師・長老たちの前で証しをします。その方々の証しを聞いた時、信仰というのはただ素直になることだと思いました。神が造ってくださった通りの真っ直ぐな人間になることです。終生変わらずに主イエスが示してくださった〈神のまなざし〉をいつも心に覚えて生きていただきたいと思います。そしてそのように生き、赦されるならば、人びとからの誉れをも受ける幸いを得るに違いないと思います。人からの誉れを受けないなどと意固地になる必要はありません。しかし何にもまさって大切なことは、ただひとりの神からの誉れを大切にすることであり、それ故に私たちもまた神の栄光をほめたたえることを何にもまさることとすることです。お祈りをいたします。