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主イエスの新しい掟
2026年4月26日
主イエスの新しい掟
詩編34:1~8、ヨハネによる福音書13:31~35
関 伸子_牧師
「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(31節b、32節)。ここから「分かれの説教」と呼ばれる長い主イエスの説教が始まり、第16章の終わりまで続きます。ユダの裏切りはイエスのご受難と結びつくのですけれども、それは神の御計画の「今や」、なのです。この言葉には恐ろしいほどの重みがあります。今やこれまでのすべての言葉と業がめざしていたイエスの時なのです。そして、そのときがイエスの「栄光」の時となります。
31節から32節に5回も「栄光を与える」という動詞が現れます。まず初めの「人の子が栄光を与えられる(栄光を受ける)」ですけれども、この言葉を理解するには第12章23節を振り返る必要があります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ・・・・・・」から明らかなように、イエスの十字架上の死がヨハネによる福音書では「栄光の時」とみなされます。「栄光を受ける」と言っても、内実的には、嘲られ、十字架にかけられて死んでいく、その出来事を指しています。十字架上の死が栄光であるとは、まさにパラドックスですけれども、ヨハネは十字架に栄光を見ています。しかも、このイエスの時は、死の恐怖に打ち勝った主イエスが最終的に十字架の道をご自分の道と決断した時からすでに始まっています。つまり、「イエスの時」は時間の流れのなかの一時点を指すのではなく、ある長さを持った継続的な時間です。
そして「イエスの時」は、神がイエスに応えて栄光を与える、神の応答をも含んでいます。そのことを強調するのが、「すぐに」(32節)です。神がイエスに与える栄光は、ユダが外へ出て行った今の時点でいえば、まだ先のことです。それで「栄光を与えるであろう」と未来形で述べられますが、「すぐに」必ず来るのです。
このように見ると、ここで強調されることは、神とイエスの親密な間柄と言えるでしょう。神とイエスの間を栄光が行き交っています。神がイエスに与える栄光はイエス個人にとどまる栄光ではありません。むしろ、イエスを信じる者に救いのいのちを分け与えることによって示される栄光です(17節1~5節参照)。
「子たちよ」(33節)と、主イエスは呼びかけて、弟子たちへと向きを変え、彼らに別離を告げます。別れの説教の最初に語られたのが、「あなたがたに新しい戒めを与える」という言葉であり、こう続きます。「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。「新しい掟」、この掟は、イエスとの短い別離の間、弟子の心がイエスの内に生き続けるようにとのすすめです。すぐ覚えられる主のお言葉だと思います。しかし、なかなか馴染まないかとも思います。反芻すれば反芻するほど不思議な響きを持った言葉です。なぜ、互いに愛し合うことを、「新しい掟」、新しい人間の生活の定めとしてお語りになったのでしょう。
もっと砕けて言えば、互いに仲良くしなさいということです。改めて主に教えられなくても、誰もがよく知っていることです。家で教えられます。幼稚園で教えられます。学校ではどの教師も教えます。「仲良くしなさい!」と。結婚すれば、結婚を祝福してくれる方たちが、新婚の夫婦に、「互いに愛し合いなさい」と励ましてくれます。子どもが与えられたら、その子に教えます。誰もが知っていることを、主イエスは、なぜ、新しい定めと言われるのでしょう。なぜなら、主がこう言われたかを、私たちは死ぬまで問い続けて生きるのです。そのような課題として主イエスはお語りになったのではないでしょうか。
イエスが弟子を愛したように互いに愛し合えば、その愛によって、その愛のうちにイエスは生き続けます。主はいつもここにおられます。「互いに愛し合う」ことは新しくありません。十字架に命を投げ出すほどに「あなたがたを愛した」方に根拠を持つ新しさなのです。人間は神を信じないまま生きることを好むであろうが、神は人間抜きで生きることを欲してはおられない。神は人間を愛さずにはおれませんでした。何とありがたいことでしょう。そして主イエスが、「私があなたがたを愛するように」と言われたとき、この愛を体現しておられる。実現しておられる。ユダの裏切りが起こったところにおいてであります。この裏切りに耐えて、この裏切りに勝つ私の愛、あなたの傲慢な愛にもかつ愛がここにある。この私の愛のなかで、あなたがたは新しい愛に生きている、生きることができる。
弟子たちが互いに愛し合うことは、彼らが主イエスの弟子であることをこの世が認めるしるしです。愛の共同体となることがイエスの弟子であることの試金石であり、証明なのです。今日も教会は愛の共同体となることによって、自ら主イエスの弟子であることを証ししています。この愛の共同体としえ成長していくことにほかなりません。パウロは教会をキリストのからだと言いました。各肢体が相互に結び合わされて一つのからだとして調和していればそのからだは必然的に成長していくように、教会も互いに愛し合いながら生きていることにより豊かに成長していきます。教会の特徴はその群れの大小にあるのではなく、相互愛の共同体であるかどうかにあると主イエスは語られました。この相互愛が教会の旗印となることを求められたのです。わたしたちも共同体として愛を実践することによって仕え合い、重荷を担い合い、互いに愛し合いながら、キリストの栄光をあらわすことを今、喜びとしたいと思います。祈ります。