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こころの底から新たに
2026年8月16日
ミカ書6:1~8、エフェソの信徒への手紙4:17~24
関 伸子_牧師
「ですから、私は主にあって語り、厳しく命じます。あなたがたはもはや、異邦人が空しい考えで歩んでいるように歩んではなりません」(17節)。これ以降に、その教会に生きているわたしたちの一人一人の生活についても改めて、しかし、一度読むと忘れられない、鮮やかで深い言葉を書いています。パウロがここで「私は主にあって語り、厳しく命じます」と言っているときに、「主によって」とは、「主のなかで」ということです。だから、「主に委ねられて、この言葉を語る」と言い換えるひともいます。
じっと教会員一人ひとりの歩みを見ている。「歩み」です。第4章1節にも「招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み」と言う言葉がありました。このあとにも「歩む」という言葉が次々出てきます。たとえば第5章8節です。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい」。わたしたちの日常生活の風景で、毎日健康ために走っているひとはいるでしょうけれども、日常の生活を造るために「走る」ということは、そんなありません。しかし、歩かないと生活できません。その歩みに、そのひとの生き方、姿勢が現れます。
この手紙の第2章13節に、「しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」とありました。ここでの「以前はそのように遠く離れていた」とは、真の神から「遠く離れていた」という意味です。その人たちに「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」と、論していますから、彼らは異邦人ではなくなったはずです。聖書にとって、異邦人とは「外国人」のことというよりは、真の神を知らずに生きている人のことです。
19節ではもっと徹底しています。「彼らは感覚が麻痺し、放銃に身を任せ、欲望のままにあらゆる汚れた行いにふけっています」。鈍くなると、自分のこころのなかに浮かぶ欲望のままに振り回されてしまって、結局は行くところは決まっています。ここにある姿は、真の神を認めず、恐れのないところにあります。そこではこの世の価値観や生活が唯一となり、それが絶対化されていきます。そのために、新しい人間となることもなく、罪にとどまっているのです。
「あなたがたは、真理はイエスの内にある、とキリストについて聞き、キリストにおいて教えられたはずです。」(21節)とは、キリスト者を指しています。少し細かいことを言うようですが、彼に聞いた、といっても、エフェソの教会の人が、実際に、生きておられた主イエスに聞く機会はなかったはずです。そうであれば、聞いたといっても、キリストから聞いたのではなく、キリスト御自身を聞いた、ということになります。おそらく、信仰にはいる時に、はっきりと主イエス・キリスト御自身を全部知ってしまうように聞いた、ということになる、と思います。