カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 東京都小金井市にある、カンバーランド長老キリスト教会東小金井教会のページです。毎週日曜日の礼拝説教の要旨をご紹介しています。このページでは、最新の説教を掲載しています。以前の説教は、メニューの「説教一覧」からご覧になれます。
    当教会は、神の家族がここにある!と実感できるアットホームな教会です。当教会のホームページもぜひご覧ください。

    ここに私が生きる場所がある

    2022年8月7日
    民数記11:24~30、マルコによる福音書19:30~37
    関 伸子牧師

     少し前ですけれども、6月23日、「慰霊の日」追悼式で、沖縄市に住む小2の徳元穂菜さんが、平和の詩「こわいをしって、へいわがわかった」を朗読しました。沖縄戦の子どもたちを描いた絵画に衝撃を受け、傍らの母のぬくもりから漠然と感じた「平和」。素朴な体験談は、女性や子どもたちを巻き込む戦争の現実を捉えています。7日は広島、9日は長崎に原爆があり77年前の8月15日に終戦を迎えました。当時の悲惨な状況が語られることすらなくなりましたが、現在もウクライナやミャンマーで起こっていることに心痛めます。

     先ほどお読みしたマルコによる福音書第9章37節で、主イエスが、まず一人の子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、抱き寄せられて語られたことがとても大切だと思います。それは決して偉い者ではありません。むしろそれは、弱さ、小ささ、無力の象徴ですらあります。

     これはどういう文脈のなかで語られたかというと、弟子たちが「だれがいちばん偉いかを論じ合っていた」後だということも大変興味深いことです。主イエスの御変容があった山の麓で、汚れた霊に取りつかれた子どもをいやした後、イエスと弟子たちは「そこを去って、ガリラヤを通って」(30節)、「カフェルナウム」にやって来ます(33節)。するとイエスは弟子たちに「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになりますが、弟子たちは黙っていました。それは「途中でだれがいちばん偉いかを議論し合っていた」からでした。

     ここで「途中で」と訳された表現を直訳すれば、「その道において」となります。もちろんここでの道はまずガリラヤを通ってカフェルナウムに至る道を指しますが、それだけの意味ではないと思われます。なぜなら、二度目の「途中で」はなくても意味は十分伝わるのに、書いたのは「その道」を強調するためと言えるからです。その意味合いとは、イエスが歩む「十字架への道」ということです。今日のところでも、ガリラヤを通ってカフェルナウムに向かう「その道において」イエスが語ったことは、ご自分の死と復活についての二度目の予告でした。しかし、イエスの言葉が分からないのに、「怖くて尋ねられなかった」弟子たちが、「その道において」議論していたのは「誰がいちばん偉いか」ということでした。確かに、彼らはイエスの歩む道が理解できずにいたのです。

     そこで、イエスはまず「いちばん先になりたい者は・・・・・・すべての人に仕える者になりなさい」と教えます。ここで「仕える」と訳されたギリシア語は基本的に「食事で給仕する」を意味します。そこからあらゆる奉仕を意味する言葉となり、特に聖書ではキリスト者の態度を示す用語となってゆきました。さらにイエスは子どもの手を取って真ん中に立たせ、このような子どもをイエスの名のゆえに「受け入れる者」はイエスを「受け入れるのであり」、それはイエスを遣わした神を「受け入れる」のである、と説きます。

     このように「仕える」と「受け入れる」はキリスト者の基本姿勢を示す言葉となりました。なぜなら、主イエスが私たちに仕えるために十字架にのぼり、私たちを受けいれてくださったのです。

     「そして、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。『私の名のためにこのような子どもの1人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである』」(37節)。

     まず一人の子どもです。ここに「受け入れる」という言葉が4回出てきますが、「すべての人に仕える」ことが、すべての人を「受け入れる」ことと密接な関係があることを教えられます。主イエスがここでなさったことは、一つの演じられた譬え」であると言われています。「子どもを受け入れる」とはどういうことでしょう。当時、子どもの評価が極めて低かったと考えられます。また、子どものような人、小さな者とは、信仰の小さい人、あるいは信仰を持って日の浅い人を指すとも考えられています。それは「弱さ、小ささ、無力」の象徴ですらあります。今主イエスは、この無力の象徴である小さい子どもを、自ら抱き上げ、みんなの真ん中に立てたのです。この子どもを受け入れることを求めました。そこには「父よ、彼らをゆるしてやってください。自分のやっていることが分からないのですから」と、その十字架の上で祈られた主イエスの姿があります。そこではまさしく自分を十字架につけた人びとまでも受け入れられるのです。

     私たちは、ここで、最後に思い起こしたいと思います。それは家畜小屋に生まれた幼子イエスです。この家畜小屋に生まれた幼子を、人びとが主とあおいだ時に、世界が変わりました。今、一人の子どもが真ん中におかれた時、私たちはこの家畜小屋に生まれた幼子を思い起こします。低いところで、小さな幼子となられた主イエス・キリストこそ私たちの救い主なのです。私たちは私たちの前を十字架へと進み行く主イエスに従っていきたいと思います。祈ります。