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復活の証人
2026年4月5日
イザヤ書55:1~11、マルコによる福音書16:1~8
関 伸子_牧師
ハッピー・イースター! 主イエスのドラマの最後の最後になって、誰もが予測しなかった大逆転が起こりました。それが主イエスのご復活なのです。復活の朝、最初にお会いした女たちも、その知らせを聞いた弟子たちも、最初はそれが信じられませんでした。マルコによる福音書第16章1節から8節の言葉は、「恐ろしかったからである」となっていることは重要なことです。何が恐ろしかったのでしょう。
言うまでもなく、主イエスの弟子たちは、失望の極みにありました。彼らが指導者と仰いだ主イエスが十字架につけられたことによって、彼らは、すべてのものを失ったと思ったのです。彼らは十字架の下にもいませんでした。そこには何人かの女たちがいただけです。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという三人の女性が、またここに登場します。この三人は主イエスのお身体に油を塗りたいと思って香料を買って用意して置きました。それを携えて墓に出かけて行ったのです。
女たちとイエスとの間には非常に大きな石が置かれていました。その石が取り除かれなければ、女たちは先へは進めなかったのです。しかし彼女たちは決してくじけずとらわれず、イエスの墓に行きました。誰かがあの大きな石を転がしてくれるだろうか、などと言いながら。そして「石はすでに転がしてあった」という不思議なことに出会いました。信仰生活においては、「石はすでに転がしてあった」という、神のわたしたちの生活への介入に出会うことが起こります。よく主イエスに出会ったと言う人がいますけれども、それは、主イエスが自分の生活に入り込んでこられるということです。石が転がしてあった、というのはとても不思議なことだと思われるでしょう。そのまま素直に受け入れることはできないかもしれません。
女たちが、石が脇へ転がしてあるのを驚きながら中に入ると、そこで白い衣を身に着けた若者がこう言いました。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、言って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(6b~7節)。ペトロに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と話しなさい、と言うのです。主イエスには、ガリラヤでお目にかかれるだろう、と言うのです。
続いて「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と記されています。マルコは、女たちが、どんなに恐れおののいていたかということを克明に描いているのです。それは、はじめの教会が、復活の事実に出会って、どんな受け取り方をしたかをよく示しています。これは、どこまでも、彼らが思いもよらなかったことであり、気味の悪いほどに恐ろしいことであったのです。なぜそうだったのか。ひとつ明らかなことに、予期せぬことにぶつかると人は恐れるものです。その恐れの芽生えのようなものはわたしたちが感じることができます。たとえば自分よりも明らかにすぐれていると思われる人や、明らかに力があると思われる人、知恵があると思われる人の前に出ると、私たちは恐れを覚えます
ここでマグダラのマリアたちはしばらくの間沈黙を強いられました。この沈黙を強いられているマリアたちの姿を思いながら、マルコによる福音書について多くの説教者、学者たちが思い起こしていることがあります。それは、もう一度第一章からずっと読んでくると、主イエスがこれまでの間に何度も、私のことを黙っていなさいと人びとに命じておられるのです。弟子たちにも、主イエスのことを最もよく理解した思われたときに、今わかったことを人に言ってはだめだと言われました。ここでは言えなくなってしまった。そしてこの言えなくなってしまった女たちが、やがて喜びにあふれて語り始めました。
天使は、「驚くことはない。十字架に着けられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言っています。かねて言っていたのは、主イエスです。彼らが探しているのも、主イエス。その中で大事なことは、このお方は、十字架につけられた方であった、ということです。その復活も、十字架につけられて死んだのに、よみがえらせられた、ということなのです。したがって、復活は、十字架において取り上げられた罪と死に関わることです。主イエスのご復活について、聖書は、主が甦ったとは言わず、多くは、甦らされた、と言っているのです。誰によって甦らせられたのでしょう。言うまでもなく、神であります。死者の中から、主を甦らせることができるのは、神のほかにはないはずです。それなら、復活は、何よりも、その神の御業をおそれることから始まるのではないでしょうか。
ある説教者が語っていることですけれども、マルコはこの8節で終えた。なぜか。わたしたちに考えてもらいたいと思っているのだ。女たちは恐れに満ちて逃げてしまった。それからどうなったのか。わたしたちは知っている。お甦りになったイエスはわたしたちと一緒にいてくださる。わたしたちにも先だって主イエスが歩んでくださった。そして、「私はあなたがたのために甦ったのだ」と言われるのです。
お甦りになったイエスが、弟子たちと一緒に何をいちばん楽しみになさったか。食事です。そして今わたしたちも、その主の甦りを祝う食卓にあずかります。ここでいのちの食卓にあずかり、永遠のいのちをいただきながら、地上のいのちを終えた者たちがあります。けれども、わたしたちはその人のことを確かな望みをもって思い起こすことができる。このさいわいを感謝します。お祈りをいたします。