カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 命への移行

    2024年7月7日
    ミカ書7:14~20、ヨハネによる福音書5:19~30
    関 伸子牧師

     今日のヨハネによる福音書第5章19節以降の話は、直前のベトザタの池での病人の癒しの場面から続いています。「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(19節)。こう言われた主イエスの御心を知ろうとするには、幼子を愛してさまざまな動作をしてみせる父親を想像するとよいでしょう。父が両手を挙げて「ばんざい」をすれば、子もそのようにする。父が片手を動かして「おいで、おいで」をすれば、子も微笑みながら「おいで、おいで」をする。子は父のなすことを見て行い、父のすることは子もその通りする。この父と子の一体なる愛の境地が主イエスの素直な御言葉のなかに溢れています。

     それを20節では父が子を愛し、という言葉で表現されています。ここで使われている愛というギリシア語はフィレオーといい、特に友人同士の愛に、また父と子や兄弟同士の間の愛に使われます。例えば人がその友のために生命を捨てる、これより大いなる愛はないというふうに犠牲的な愛、無償の愛に使われています。ここで父なる神とイエスとの間にフィレオーが用いられていることは父と子の個人的な愛情を表すために使われているのです。あの38年病気で苦しんでいた男を癒されたことは小さな業ではありません。父なる神は、必要に応じて、これよりもさらに大いなる御業をイエスに示してなさせるでしょう。
     ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた、という状況の中でキリスト教徒たちはどうしたのでしょうか。当時のキリスト教徒に、ユダヤ教に対して反撃する力があったかどうかはわかりません。しかし、少なくとも当時のキリスト教徒は、同じ圧力でユダヤ教徒に反撃することはしなかったでしょう。ヨハネは、「人の子(主イエス)は、信じる者に命を与える」と力説することでした。その中でヨハネは「裁き」という、あげた拳をどうふりおろそうか、揺れ動いているのではないでしょうか。もしかしたら、くちびるをかみしめながら拳をおろそうとしているのかもしれない。拳をおろして、さてどうしたらいいのか、そこから問いは始まります。
     「よくよく言っておく。わたしの言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」(24節)。ここで主イエスは端的に、御自分を受け入れることは生命であり、拒むことが死であると述べています。この御言葉は私たちへの約束です。私たちのような者にもイエス・キリストの良き御手の中に置かれているのだと信じるのです。イエス・キリストは、すべてに人のために祈り、すべての人のために十字架にかかられた方であるからです。十字架の上で死んでいきながら、ご自分に敵対し、御自分を十字架にかけた人々のためにまで、こう祈られました。「地著よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。
     これが、主イエスの最後の切実な祈りでした。この祈りに、21節の「子も、自分の望む者に命を与える」という言葉を重ね合わせてみると、「自分が何をしているか分からない人も赦されて、命が与えられる」というのが、主イエスの望みであることがわかります。しかも、父なる神も、「誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」というのです。

     主イエスの十字架の愛にふれるとき、人は自分の罪を知るのです。それは特に第9章の盲人のいやしに示されています。安息日に主イエスが38年病に伏せていた人を癒したことにより、ユダヤ人たちの敵意と迫害はますます激しくなります。しかしイエスは毅然として、父なる神が死者を復活させるように、子である御自身も望むままに命を与えると語られます。真にキリストは、裁くためではなく、この世を愛し、人々に豊かに命を与えるために来られた、これこそヨハネ福音書を貫く福音のメッセージなのだと思います。

     私たちは、主イエスの十字架上の祈りがむなしく終わることは考えられませんし、その主イエスの十字架よりも重い罪というものを想像することもできません。そして、イエス・キリストがそのように祈られた方であることを知っているからこそ、「子も、自分の望む者に命を与える。また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」という言葉の中に、大きな慰めと希望を見るのです。私たちの詩も命も、イエス・キリストの御手の中にあるのです。主のいのちに生かされている自分を改めて受け取り直しないと思います。私たちすべてのものに、既に聖なる霊のいのちの風が吹き始めている。心をかたくなにしてこれを遮ることがないように、霊の導きを、み言葉の導きを心から願いたいと思います。

     平和を祈り願って苦闘する人々、弱く、貧しい者とされた人々の命を守るために献身する人々、傷づいた地球を癒すために奔走する人々、すべての命が豊かに養われる世界を実現しようとする人々の内に、復活のキリストが生きて働き、決して滅びることのない命が脈々と流れているのを信じます。