カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 豊かな命への門

    2026年4月19日
    エゼキエル34:7~15、ヨハネによる福音書10:7~21
    関 伸子_牧師

     ヨハネによる福音書の中で、主イエスは、旧約聖書に用いられる言葉をよく御自分に適用されます。「パン」と「光」のあとに、第10章では「羊飼い—牧者」を適用してたとえが語られます。「私は羊の門である」(7節)。主イエスは羊飼いであり、かつ羊がそこから出入りする、つまりおいしい草を食べ、水を飲み、楽しみ、そして夜は安全な家に帰ることができる、門だというのです。イエスは羊を連れ出して豊かな牧草地に連れて行き、そして夜は安全な小屋に連れ戻してくれる羊飼いであり、同時にそこを通ってだけ出入りできる門であるというのです。

     動物を含めた自然界が遠のきつつある昨今、特に牧畜生活とは無縁な者たちにとって、「羊飼い」のイメージは、思い浮かべることさえ難しいかもしれません。しかし、聖書の民には、羊飼いの姿がどれほど親しいものだったことでしょう。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」で始まるあの詩編第23編を思い浮かべます。

     羊の門というのは、牧者が羊をそこから出したり、また導き入れたりするところです。その門を通るから羊飼いなのであって、他から出入りするのは強盗です。この門を通って入るものが本当の羊飼いなのです。牧師はイエスという門を通って、すなわちイエスの任命によってはじめてその資格を与えられます。これは信仰の場合にも同じことです。よく自分を卑下する方があります。ある意味それも必要だと思いますが、「私のような者」が救いにあずかり、神を信じる者とされていることが、私たちの誇りであり、よりどころです。

     ところで、主イエスは「私は羊の門である」と7節と9節で言われます。主が「私は・・・・・・である」と言われるとき、それは必ず私たちが何かの恩恵に浴するためです。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10b、11節)。単なる「羊飼い」ではなく、「良い羊飼い」です。これはギリシア語の言葉その通りの翻訳で間違いはありません。しかし、ある神学者は「私が本物の羊飼い」と訳しました。これもよい訳だと思います。なぜ主イエスがわざわざ名乗り出ておられるかというと、まがいものが多いからです。

     13節で「彼は雇い人で、羊のことを心にかけてないからである」と記されています。雇い人の態度は良い羊飼いとは全く異なります。雇い人は利益のために羊たちの側にいるに過ぎないのであり、愛ゆえではありません。それゆえに、危険が起これば逃げます。「羊のことを心にかけていないからである」。雇い人の報酬はお金であったり、名誉であったり、あるいは自分が小さな世界の中心であるかのように感じることであったりします。このような人々は自分たち自身の羊飼いなのであり、羊たちの羊飼いではありません。自分たちの利益や名声が気がかりなのであり、口では仕えていると言っていますが、民のために働いているのではありません。宗教界のリーダーたち、文脈上、具体的にはファリサイ派の人々や、もっと広く考えて、旧約時代のすべての偽預言者たちを指しているものと思われます。しかし、主イエスの後も、いつの時代にも、こういう人たちがいて、「命を(豊かに(与える」イエスに逆らって、「命を滅ぼす」働きしかしないのです。このような人々や、わたしたちの中にあるかもしれないこのような態度への同調に対して、主は厳しく語られます。それゆえに、主に倣い、きょうだいたち、とくにもっとも小さくされているきょうだいたちの間に境界を置かずに連帯するように、主は私たちを招いています。このようにしてのみ、わたしたちは「神の子」と呼ばれるのです。「神の子」(ヨハネ一3:1)とは、イエスを知り、愛する人々のことです。

     最後にもう一度、「私は良い羊飼いである、私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」(14、15節)という主イエスの言葉を心に刻みたいと思います。ここで使われている表現は契約の表現に非常によく似ています。「私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる」(エレミヤ7:23)。相互の愛が主とその民を結びます。愛であって、恐れではありません。

     このような連帯は、自分自身のいのちを捨てることにさえ至るのです。誰も主からいのちを奪い取ることはできません。主はいのちをお与えになります。主の死、十字架刑は運命の結果ではありません。自由な決定の結果です。羊飼いであることは一つの職業ではありません。いのちを選ぶということです。わたしたちは皆、わたしたちのきょうだいたちの羊飼いです。わたしたちはきょうだいたちに対して責任を持っています。わたしたちは自由な意志によってこれを引き受けるべきです。周囲の小さくされている人々に関わり、共に神の愛に触れていきたいと思います。

     最後の「父から受けた掟である」(18節)は、イエス・キリストの「捨てる権威」「受ける権威」という父と子の密接な信頼関係を指します。それは父と子の一致による人間の救いを担われる「キリスト論」から導かれるのです。
    わたしたちは日々過ちをおかし、イエスの恵みにあずかった者としてふさわしくないような言動をする者です。しかし、なお、わたしたちは主イエスの慰め、励ましを与えられています。この主イエスを通して信仰生活をなしていきたいと思います。良い羊飼いを模範としつつ、小さな羊飼いとしてそれに続くようにと招かれています。お祈りをいたします。