救いを見る
2026年11月1日
創世記49:8~17、ルカによる福音書11:29~36
関 伸子_牧師
主イエスが口を利けなくする悪霊を追い出した事件の波紋はまだ収まりませんでした。ルカによる福音書第11章16節に「イエスを試めそうとして、天からのしるしを求める者がいた」とあります。「天よりのしるし」というのは、奇跡的な証拠という意味です。私たちは、誰もが目に見えるしるしを欲しがるものです。目に見える形で事態が好転することを求め、そのしるしをもたらたすものを求めます。メシア(救い主)と呼ばれる者は、このしるしをもたらすべきだと多くの人が考えています。「今の時代は邪悪な時代である」(29節)とはそのことを表すでしょう。
主イエスはしるしそのものは否定されません。しるしはある。主は、ここで「つまり、ヨナがニネベの人びとに対してしるしとなったように、人の子も今の時代に対してしるしとなる」(30節)とおっしゃいました。ヨナの話の中で注目すべきことは、魚の腹の中での「三日三晩」と、「主の憐れみ」です。魚の腹の中は当然真っ暗です。死の闇に包まれた墓の象徴です。その闇の中から、ヨナは光の中に吐き出されました。その上で、彼は派遣され、ニネベの人に悔い改めを迫る預言をしたのです。そこで、ニネベの人たちは、御前に悔い改め、神に赦しを願った。すると、神は彼らを憐れみ、彼らを滅ぼさず、生かしたのです。主イエスは、こう言われました。「裁きの時には、ニネベの人びとが今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人びとは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここにヨナにまさるものがある」(32節)。
「南の女王」の故事は、旧約聖書の列王記上第10章に記されています。南方シバの女王がエルサレムを訪れて、ソロモン王の知恵に富む言葉を聴き、「あなたの神、主はたたえられますように」と讃嘆したというのです。このように遠い異邦の民の王でさえ、神の預言の言葉を聴いてこれを信じたのであり、その時彼らはヨナに向かい、あるいはソロモンに向かって、「天よりのしるし」を求めることをしませんでした。彼らは宣べ伝えられた言葉の真理とその権威そのものによって、素直にこれを神の言葉と認めて自らの罪を悔い改めたのです。主イエスの言葉を聴いて、その権威と真理を信じることができないならば、天よりのしるしを示しても、彼らはイエスを信じないでしょう。
主イエスは「あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。・・・・・・あなたの全身が明るく、少しも暗い部分がなければ、ちょうど灯が輝いてあなたを照らすときのように、全体が輝くだろう」(34-36節)と言われました。誰も灯をともして、穴蔵の中または桝の下に置く者はありません。部屋に入って来る者が光を見ることができるように、燭台の上に置きます。このように光の置き場所は大切なのです。自らの身体を一つの部屋にたとえるなら、自分たちの灯はどこに置かれているでしょうか。自分の身体の灯は目です。自分の目が健康であるならば、全身が明るいでしょう。これに反し、自分の目が病めば全身暗いでしょう。
この目とは肉眼のことではありません。肉眼で見えることは少しですし、表面的なことに過ぎません。目が健康であれば全身健康であり、目の具合いが悪ければ全身違和感があることを、イエスは眼科の専門医のように知っておられました。しかし、それは「内の光」についての譬喩であって、室内のランプがよく灯っているか、身体の目が健康であるかをよく調べる必要がある以上に、「自分の中にある光」を調べる必要があります。自分の心の中を覗き込むような思いがする、びっくりする言葉です。自分の中に光が、と問わずにおれない。私たちは、光というのは外にあるのであって、その外の光に比べて、自分は、どうしていつもこんなに暗いのかと考えていることが多い。そうではないでしょうか。私たちは、いつもこのように自分の心の中を覗き込んで、いじけてしまう。光が届いていないと思ってしまう、その時に、そこで主イエスは招いておられるのです。
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。この主の招きの言葉を聴きながら、私たちがあずかる主の食卓は、私たちの全存在の虫干しを、もう一度させていただくようなものです。こんなにかびが生えている。神の光が射しこんでこなければ、もうだめになるかもしれません。主の光よ。ここに届いてください。そういう目で、主の恵みを見つめます。そこに、私たちの健康がかかっているのです。
この目を暗くしてしまうもの、それは、主イエスのところに押し寄せ、主を取り囲んでいる人たちの中にもあったものです。目が澄むためには、膝を屈めることが求められているのです。立ちはだかって、目をらんらんと光り輝くように明けていても、その目が澄んでいるわけではありません。その濁ってしまう目を清めるために、群がり集まる群衆の手によって、主イエスが、ついにご自分のいのちを落とされるところまで歩んで行かれたのです。私たちの目にとりついてしまっている濁りを取るために、主イエスは、ただ「あなたたちの目の濁りはどうしようもない」と腹を建てられたのではなくて、ご自分の手をそこに添えるために、とうとう行くところまで行ってくださった。そうなると、私たちは家の中に入る時に、今度は、ひとりで入らないですむようになるのです。主イエスと一緒に入っていけばよいのです。主イエスと共に入って行けば、どこにでも、ふるさとを見出すことができるのです。あかりを灯すことができるのです。それどころか、そのあかりの中に、人びとを招くことができるのです。お祈りをいたします。