カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の救いを仰ぎ見る

    2026年11月8日
    創世記18:1~15、ルカによる福音書3:1~14
    関 伸子_牧師

     荒れ野に生きるヨハネに神の言葉が降りました。ルカによる福音書第3章2節後半に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」とありますが、これは今日の箇所全体を支える荘厳な言葉だと言えます。それ以前と2節後半との対比が意図されていると考えられます。1-2a節では、皇帝ティベリウスから始まって大祭司アンナスとカイアファまで、ユダヤ地方に影響力を持った権力者の名が列挙されていますから、このような権力者に対して荒れ野に生きる洗礼者ヨハネが対比されていることになります。そして、神の言葉が下ったのは権力者ではなく、荒れ野の洗礼者ヨハネであったことを強調しようとしています。

     主イエスが風光明媚なガリラヤで成長しつつあった時、ザカリアの子ヨハネはユダヤの荒れ野で成人していました。この荒れ野というのはユダヤの山地からヨルダン川の渓谷にむかって傾斜した地帯であって、岩石のごろごろした不毛の地ですけれども、所々に草地があって羊や山羊が放牧されていました。夜は猛獣が徘徊して家畜に害を加え、街道には強盗が出没して旅人を掠めた。このような地でヨハネは育ち、野生の蜂蜜と蝗を常食とし、駱駝の毛で織った粗衣をまとい、生皮を帯として生活しました。不毛な地と澄んだ夜空とが、ヨハネに祈りと断食を教えました。

     ここで語られるのは、まずユダヤ人の頑固さです。ユダヤ人の頑固な心。それに対して投げつけられる神の怒りの言葉を洗礼者ヨハネは語っています。人間は権力の座をめぐって激しい闘争を繰り返すことがありますけれども、神は彼らに働きかけずに、孤高の人、洗礼者ヨハネに語りかけたのです。そこで3節では、彼の活動が短く要約され、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。聖書が述べる「悔い改め」には、旧約聖書の「立ち帰る<シェーブ>」の意味合いがかぶせられていますから、「神が起こした業の方へと生きる姿勢全体を変える」ことを表します。「方向転換」のことです。それまで進んでいた方向とは、全く逆の方向に進むことです。端的に言えば、自分のために生きていた人間が、神のために生きる人間にされることです。そのためには「悔い改め」が必要なのです。

     人間が悔い改めるためには、自分が罪人であると認めることが必要です。ヨハネが語った救済は「罪の赦し」です。すべての人間が罪人である、ということです。そこに神の民ユダヤ人も異邦人もない。「アブラハムが父祖にいる私たちは、他の人とは違う」ということはあり得ないのだ、と言うのです。

     マタイもマルコもルカと同じように、洗礼者ヨハネの登場をイザヤ書第40章の預言の成就とみなし、イザヤ書第40章を引用しています。しかし引用の長さは異なっています。マタイとマルコでは引用はイザヤ書第40章3節だけにとどめられているのに、ルカでは第40章3節から5節までが引用されています。

     5節には「すべての肉なる者は共に見る。主の口が語られたのである」という言葉がありますけれども、このテーマはルカによる福音書第2章30節から32節のシメオンの賛歌にもあるようにルカにとって大切なテーマなのです。万民にとっての救い主、イエスの到来を準備するために洗礼者は来た、これを強調するためにイザヤ書第40章5節をも引用したのです。なぜ4節をも引用したのでしょうか。4節も引用する価値があったからです。ルカによる福音書第3章5節(→イザヤ40:4)は、4節の「荒れ野で叫ぶ者」の呼び掛け、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」に反応して引き起こされた自然の変化を述べています。「谷はすべて埋められ山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに でこぼこの道は平らになり」。何がこの変化を巻き起こすのだろうか。神の言葉です。2節に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」とありますが、この神の言葉が洗礼者ヨハネを通して自然に働きかけるのです。5節の最初の二行の動詞はすべて受動形ですが、これは神的受動形でしょう。そうであるなら、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐ平らにするのは神の言葉です。洗礼者ヨハネを通して語られた神の言葉、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」が山や谷を変えて、道を築かせたのです。こうして、神の救い、主イエスが通る道が完成します。

     荒れ野に呼ばわったヨハネの声はユダヤの全国に鳴りひびき、人々の良心を鋭く刺激するだけの権威を持ちました。人々は自己の生活を道徳的に反省し、神の審判が近いことを思い恐れおののきました。

     日本人には罪意識が乏しいから伝道しにくい、とよく言われます。日本人は恥じしかしらない、罪そのものを知らないから、なかなかイエス・キリストの十字架の救いの意味がわからない、というのです。しかし、どうでしょう。最も神とのつきあいが長く、深かったユダヤ人こそ、罪を理解する民族であるはずなのに、頑なになっている。いったい、誰が罪について真実のやわらなかこころを持っていると言えるか。持っていたと言えるか。今持っていると言えるだろうか。日本人をも含めた人間すべての罪意識の薄さに戦慄するよりほかありません。こう考えてきますと、人間のこころの荒れようは本当に深刻であると思います。

     ヨハネは謙遜な人でした。だからこそ、彼は人々に悔い改めを求め、「主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ」(4節)と語るのです。ヨハネの後にくるメシアは、人であって、神である方です。誰も捉えきれないお方です。その方がやって来られる。人間は罪が赦されなければ、真実な意味で自由になれません。そういう自由を与えてくださるメシアが、神のもとから送られてくる。ヨハネは、そう告げているのです。お祈りをいたします。