主イエスを見つめて
2026年9月27日
エレミヤ31:7~17、ヘブライ人への手紙12:1~3
関 伸子_牧師
本日は召天者記念礼拝をささげています。先に東小金井教会員として、あるいはその家族として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚え、ご遺族と共に礼拝をささげています。お手元に召天者名簿をお配りしました。東小金井教会が礼拝を始めた1964年以降に召された方々のお名前と亡くなった日付と短い紹介文が記されています。これまでにどれだけ多くの方たちが教会に連なり、そして天に召されていったのでしょうか。おびただしい召天者の方々がこの教会の歴史を築いて来たことを思わされます。
先ほどお読みしましたヘブライ人への手紙第12章1節から3節を読むと、「おびただしい証人の群れ」に私たちが囲まれていると書いています。その前の第11章に語られていた、旧約聖書に出てくる、主なる神を信じてこの世を歩み、そして死んだ多くの人々のことです。主なる神を信じて人生を歩み、そして死んでいったおびただしい人々の群れに私たちは囲まれているのだ、とこの手紙の著者は言っているのです。先に天に召された信仰の先輩たち、召天者の方々は、私たちにとって証人なのです。
また、ここには「さあ、やろう!」とかけ声を掛けて立ち上がる姿勢があります。第4章で既に同じように語りかけていました。「それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)。そこでは大祭司イエスを描き、恵みの座に近づこうと促します。そして、ここでは信仰の創始者、完成者イエスを仰ぎつつ、一緒に走り抜こうと励ましています。第13章で、自分が語る言葉を「励ましの言葉」であると呼びましたが、まさにそれは原語が意味するように、「励ましの言葉」でした。しかも、今走りつつあるものを眺めながら「がんばれ!」と声をかけているのではありません。一緒に走りながら言うのです。すべての重荷や絡みつく罪を脱ぎ捨て自分に定められた競走を忍耐強く走ることのできる秘訣がここにあります。
「証人の雲」のなかに主イエスがおられます。そう理解するひともあります。そうだとしても主イエスは抜きん出ておられる。自分たちを囲む証人の雲のなかにあって、わたしたちを生かす真理を、いのちを賭けて証ししてくれる人びとのなかにあって、共に仰ぎ見るのが主イエスであったということもできるでしょう。
ここでまず主イエスは、信仰の創始者であって完成者であると呼ばれています。主イエスは「というのは、多くの子たちを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」と第2章10節にありました。主イエスは、ご自分の苦しみを通して救いに至る信仰の道を拓いてくださった創始者であり、かつ、その道を進む者をゴールにまで導いてくださる完成者です。
先に召された人々も同じように痛みを忍び、信仰を全うして天へと迎えられた姿を思い起こします。特に人生の後半、あるいは半ばで病を得る。癌を宣告され、その後も信仰者として耐えつつ、その時の心情を正直に伝え、共に祈る。そのようにして地上の歩みを終え、天に召された方たちを思い起こします。
この2節には、興味深い言葉があります。「御自身の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです」。「喜びのゆえに」は「喜びを捨て」とも「喜びのゆえに」とも訳すことができる、両方の意味を持っているのです。親は自分の子どもの教育のことで我を忘れ、サラリーマンは自分の会社の業績を挙げ、自分の地位が上がるために夢中で働く。人間として生きているとき、さまざまな目当てがあって、そのために走り抜くことも楽しいことであるかもしれません。しかし、そこでいつも軌道修正をしなければなりません。そのコースは間違っているかどうか、それがよくわかるために、何が大事かというと、あなたはいつも何を見て走っているかということです。
主イエス・キリストが来られたということは、まさにそのような意味において目当てを示すことでした。ここで浮かび上がってくるのは「忍ぶ」という言葉です。2節にも3節にも忍ぶことが語られ、勧められています。「競争」と言いますけれども、ここで語られているのは短距離競争ではありません。マラソンを思い浮かべる解釈者が多い。そうでしょう。そのような競争そのものでも問われる力のひとつは忍耐力でした。ヘブライ人への手紙は、信仰の戦いが、迫害に耐えることのもならず、崩壊に耐えることであることを知っていました。疲れ果てることと闘うことであることを知っていました。ルターは神からの試練について好んで語りましたが、それをヘブライ人への手紙が語っていると読むこともできるでしょう。自分の弱さに目を留めると疲労し、気力を失いますけれども、信仰の導き手であるイエス様を仰ぐとき、再び走る力が与えられます。十字架の苦しみを越えて復活の栄光にあずかられた主イエスが、私たちのゴールを保証し、今も共にいてくださる。
いったいわたしたちがイエスを見つめてどのように生きることができるのか。見つめるということはどういうことだろうか。マラソンランナーのいちばんつらいことは孤独であるということがよく言われます。じっと自分の孤独を見て、自分自身だけを見つめて、ひた走りに走る。誰にも助けてもらいない。しかし、わたしたちは違う。
わたしたちも神の前に向かって走るのです。でも私たちは忍耐し切れないかもしれません。苦しみは苦しみであり、そこに神の愛を見るのはとても難しいことです。私たちの忍耐力はそんなに大きくはないですから、気力を失い疲れ果ててしまうことがあります。そのことは、先に天に召された人々もそうだったに違いありません。信仰の競走を立派に走り抜いた人のみがこの名簿に載せられているのではないのです。主イエスの忍耐こそが、先に天に召された方々一人ひとりの人生を支え、導き、この教会と結びつけ、主イエスによる救いの恵みにあずからせてくださったのです。
わたしたちの教会の先輩たちも走り抜いて神のみもとに至った。わたしたちの後に続く者もそうしてくれるでしょう。こんなに慰めに満ちた走り抜く歩みを与えられていること、これにまさるさいわいはないと思います。お祈りをいたします。