カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 滑らかな石

    2017年6月18日
    サムエル記上17:31-54、ヨハネ1:40-42
    濵崎 孝牧師

     少年ダビデが祈りつつ拾った石は、「川岸から」(40節)拾ったものでしたね。長い間、川の流れの中でコロコロ転がり、そうして磨かれた小石だったのではないでしょうか。羊を猛獣から守るために石投げ紐を使って来たダビデは、そういう小石が役立つのを知っていたのでしょう。

     役立つ小石……、私どもは、私どもの救いのために十字架と復活の出来事を祝福してくださった慈しみ深い神さまの役に立つような人間になりたい……と、願って来たのではないでしょうか。私どもを磨き、滑らかな小石のようにするものは何でしょうか。詩編65編には、次のような詩句が見出されます。「あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。/神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。/あなたがそのように地を備え/畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。」(10、11節)―『神の水路は水をたたえ」という表現は、前の口語訳聖書では「神の川は水で満ちている」というものでした。私どもは、言わば「神の川」に私どもの人格を委ねるのです。私どもの人格を磨き、感謝と喜びの生活を祝福してくれるのは、何よりも神の川の流れなのです。

     少年ダビデは、川岸から滑らかな石を拾いましたね。「川岸」は、前の口語訳聖書では「谷間」でした。英語の聖書ではthe wadiです。ワディというのは、「乾燥気候の地方にある、降雨時または雨季にのみ水の流れる谷」のことです。神奈川県秦野市には、姉妹教会があります。その「渋沢教会」の近くにある川の名は、「水無川」です。上流の丹沢の山に大雨が降ると、大量の濁流が走ります。しかし、お天気が続くと静かな流れになり、川底が現れ、まさに水無川になってしまう所があるのです。それは、伏流というもので、砂礫などの粗い物質からなる場所で水が地下に潜って流れる現象です。……皆さん、ワディや水無川のような川でも石は磨かれ、滑らかな小石が出来るのです。まして、満々と水を湛え、滔々と流れる美しい神の川に身を置き続ける信仰者は磨かれ、神さまに役立つような人格に変えられるのです。

     ヨハネによる福音書には、キリスト・イエスさまとヨハネの子シモンとの出会いの出来事が語られていました。「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――「岩」という意味――と呼ぶことにする』と言われた」(1章42節)。イエスさまは、祈りつつ小石を拾い上げたのです。イエスさまは、路傍の石だったヨハネの子シモンを選び、「あなたを岩のような人間に変えて用いよう」と約束されたのでした。そのお約束の実現は、使徒言行録2章のペンテコステの出来事で確認することが出来ます。かつては小さな石ころのようだったシモンの人格は磨かれ、育ち、ペトロ(岩・ケファ)という名にふさわしい大きな奉仕で神さまのご用に役立ったのでした。

     十字架と復活の愛で小石を拾い給う救い主イエスさまとの出会いを大切にし、祈りつつ聖書に親しみつつというような神の川の流れに生きて行くなら、私どもも滑らかな小石のようになり、慈しみ深い神さまに用いられるのです。その役立ちは、気を落とした人々を奮い立たせるほど大きいものになるかもしれません。

     山本周五郎の短編に、「石ころ」というのがあります。合戦に出る度、戦場から兜首ではなく、平凡な石ころを拾って来る戦士、多田新蔵の物語です。石ころを拾って来る新蔵は、城中の人たちから笑われている存在でした。しかし、本当のところ彼は、大活躍したのです。でも修羅場で敵方の武将を倒しても、彼はその首をとることは味方に譲り、別の戦いに突進したのでした。それが彼の有り様であり、名声も栄達も彼には関心が無かったのです。そのことが理解できなかった妻の問いかけに、新蔵が語りかけた言葉は次のようなものです。「こんなのは何処にでもころげている、いたるところの道傍にいくらでもある、形も色も平々凡々で何の奇もない、しかしよく見るとこいつは実に何ともいえずつつましやかだ、みせびらかしもないし気取りもない、人に踏まれ馬に蹴られてもおとなしく黙ってころげている、あるがままにそっくり自分を投げだしている、おれはこの素朴さがたまらなく好きなんだ」――石ころの素朴さを学びたいという新蔵の思いは、作者・山本周五郎の思いだったかもしれません。山本氏はかつて、直木賞の受賞を断った人でした。

     「ペトロの十字架」というのをご存知ですか。横木が下の方にある十字架です。伝説によれば、迫害で十字架刑になった使徒ペトロは、主イエスさまと同じ姿では申し訳ない。罪深い私は逆さ十字架にして欲しい……と言ったのだそうです。もしそれが本当なら、ペトロ先生のこの世の人生の終わりは、「石の心さえ 脈打ち始める」(讃美歌406番4節)という歌詞が想い起されるような独特で個性的な滑らか石になったのです。
    私どもは、あの川岸から拾われた小石の滑らかさを学びましょう。私どもも、神の川の流れに暮らし、神さまのご慈愛で磨きをかけていただこうではありませんか。そして、ほんの少しでも神さまの役に立つことができれば、それはどんなに大きな仕合せか……ということを想っていたいのです。主イエスさまは、路傍の小石を慈愛に満ちた眼差しでみつめ、微笑みつつ拾い上げた神さま。ここで礼拝している皆さんもきっとイエスさまの温かい掌の中の小石だったのです。どうぞイエスさまの愛と偉大なお力に信頼して、祈りの路づくりを進めましょう。ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)。