カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストの住まい

    2020年9月27日
    詩編103:14~22 新約:ローマ14:8~9
    関 伸子牧師

     今日、私たちは先に天に召された方たちを偲んで召天者記念礼拝をささげています。開式賛美として讃美歌21の385番、「花彩る春を」を賛美しました。「花彩る春を この友は生きた、いのち満たす愛を 歌いつつ。悩みつまずくとき、この友の歌が 私をつれもどす 主の道へ」。本当にこの歌詞の通りだと思います。私たちがつまずく時、疑いと悩みの中にある時、すでに天に召された信仰の先輩の眼差しが私たちを守り導いてくれる。あなたは一人ではない、あなたと同じ悩みを私も悩んだ、そして今、神のみもとにあってあなたを見つめている。祈りなさい、歩み続けなさい、と語りかけてくれます。悩み多く、つまずいてばかりいた私たちだからこそ、このような私でも神さまが受け入れてくださった喜びを、後に続く人々に証しすることができるのではないでしょうか。

     先ほど、旧約聖書の詩編第103編14節から22節をお読みしました。1~5節が「わが魂」に呼びかけ、救いの神ヤハウェへの讃美を促すのに対して、最後の19節から22節でヤハウェ讃美へと促されるのは、ヤハウェの御使いたちであり、ヤハウェに仕える者たちであり、全被造物である。その狭間で、かつてイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放したヤハウェによる事績が想起され、われらの罪・咎を厳しくとがめはしなかったヤハウェへの感謝の念が表明され、人間のはかない生とは対照的なヤハウェの慈愛の永続性が謳われる。すべての幸いも災いも、その神から与えられる。地上での一切の祝福にまさって、人に備えられた最大の賜物はイエス(その名は「救い」を意味する)自身である。

     新約聖書はローマの信徒への手紙第14章の7節から9節をお読みしました。この手紙の第7章24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という言葉は、永遠に人間の共感を得られるものです。一生のうちで一度もこのような叫びをあげたことがないという人は、おそらく一人もいないだろうと思います。聖書がここで与えていること、それは、霊によってこそ、人間は生きられるので、肉によって生活することは、生きることではなくて、死ぬことになるということです。信仰者の生も死も「主のため」なのである。パウロは、これを、「キリストはわたしたちのために死んでよみがえられた」という信仰告白で基礎づけ、信仰者がその生と死においてキリストを主とすることの意味であるとします。

     パウロは「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(6節)と語っていた。「肉の支配下」と「霊の支配下」とは「死と命」とに対応している。この少し前のところで、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)とも語っていた。ですから、肉の思いが死であり、霊の思いが、いのちであり平安であるということが分かると思います。しかしここでいう肉の思いは、すぐに肉欲の生活とはいえません。人間を中心にした生活のことです。人間をたたえる生活が死であるはずはないのですけれども、それが、神に従うことを心から喜ばないところに、神を敵するゆえに死であります。

     その反対に、霊による生活すなわち、神に喜んで従う生活は、いのちであり、平安です。元気な、活気に満ちた生活が、いつもいのちとは限りません。神に対して平安を持ち、いつでも神の祝福を信じ得る生活こそ、まことのいのちです。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」(9節)、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら」(11節)とパウロが畳み掛けるように語っている神の力の内在は、「キリスト・イエスに結ばれている」という事実を逆の方から述べていると言い得る。人が「キリスト・イエスに結ばれている」目に見えるしるしが洗礼である。

     宗教改革者マルティン・ルターは、自分の信仰が動揺すると「わたしは洗礼を受けている」と自分に向かって叫んだ。ルターの場合、誕生の翌日に洗礼を受けているから、その記憶はまったくなかったが、それでも洗礼を受けているという事実が、キリスト・イエスに結ばれている者の一人であることをルターに確信させた。洗礼を受けているという事実は、「神の霊が宿っている」という事実のいわば外的保証であり、「肉の思い」の攻撃で動揺しやすい私たちを主にあってなぐさめてくれる恵みの手段です。バルトという神学者・牧師もまた同じ感動をもって、「すべての墓の上に、同じ霊によって、われわれ自身が、われわれのからだが永遠に生きるであろう、という約束が立っている」と言って、第8章のここの説明を終わっています。私たちは信仰の先達に励まされ、キリストの住まいに生き、霊に生かされ、実を結ぶ歩みをなしてゆきたいと願います。お祈りをいたします。