カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 仕える者となる

    2021年3月21日
    詩編118:1~9、ローマ8:8~11
    関 伸子牧師

     パウロはキリスト者を熱心に迫害する者でしたが、ダマスコ途上において、天からの光に打たれ、なぜあのようにあざやかな回心をできたのでしょうか。そのことについてはいろいろな説があります。その一つの説明として、パウロがキリスト教徒を迫害したのは、律法による行いによって救われようと努力した結果であった。しかし、そうすればするほど、律法によっては救われない自分に気がつき、自分には救われる何の資格もないとパウロは絶望した。ダマスコ途上で倒れたのはそのようなパウロの経験を象徴的に語り、そのときはじめてパウロは、天からの光、すなわち人が義とされるのは、行いによるのではなく、信仰によるという、きらめくばかりの経験をしたのではないか、と言うのである。

     キリストが命ある方として罪と死から自由にされたように、私たちも罪と死から自由にされたということである。私たちは肉に対してではなく、神に対して果たすべき責任があり、それだからこそ神の相続人なのである。しかし、それは望みとして与えられているものであり、現実と望みとの間にはギャップがある。そのギャップは、待ち望むことにおいてはじめて越えられていくのなのでしょう。

     「あなたがたこそは、それとちがって、肉の中にはいないで、霊の中にいるのである」とローマの信徒への手紙第8章9節のはじめは、原文ではこういう文章からはじまっています。原文でここを読むと、まず、この一句が、極めて鮮明な印象をもって迫ってくるのを感じるでしょう。死の体からの救いを切望している者にとっては、力強い慰めの言葉のようにも響くでしょう。救いはここにある、恵みはこれ以上なのだと言った上で、それがあなたのものになっていると言われて、私たちははじめて、ありがたみを感じるのです。キリスト者とは何か、という時に、パウロは霊のうちに生きる者である、と説明しています。そのためには、神の霊が宿らなければならないというのが、パウロの説明です。

     では、神の霊は、どのようにして人間のうちに働くのでしょう。神に従わない者が、神に従うようになるには、右に向いている者を左に向かせるようなわけにはいかないのです。それは、罪を認めて悔い改め、回心が行われなければならないのです。回心は、救いを必要とする。しかし、今までは間違っていた、だから出直そうという決心では、どうなるものでもない。その決心はいつ変わるか分かりませんし、決心だけでは、人は、神の方へ向くことはできないからです。かたくなな心を砕き、悔い改めさせて、救いを確信させるものは、キリストの霊です。

     最後に、死から決定的に解放される道が記されています。11節には、「イエス・キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき身体をも生かしてくださるでしょう」と記されています。キリストは神の御子です。しかし、パウロは、しばしば、神とキリストとの関係を語る時に、キリストの復活のことを言うのです。「イエス・キリストとこの方を死者の中から復活させた父なる神」(ガラテヤ1:1)は、その最もよい例です。神がキリストを死人の中からよみがえらせた。これは、私たちの中で起こった事実であり、私たちの救いのただ一つの根拠になっていることです。そこから、私たちは、神がキリストの父であることを信じるのです。

    人間のいのちは何にかかっているのでしょう。真のいのちは、罪から救われること、義を与えられることによって保障されるのです。死の体の救いは、ここに全うされた。そこに主に感謝する心が生まれます。詩編第118編は「主に感謝せよ」と始まり、末尾にもこの詩が繰り返されて、全体を枠づくります。「感謝せよ」と呼びかけられるのは、「イスラエル」「アロンの家」そして「ヤハウェを畏れる者たち」である(2~4節)。これら三者をもってエルサレム神殿における礼拝に集う人々の全体が言い現わされている。5節から7節で詠い手は、神ヤハウェが祈りに応え、「私の見方」になってくださったからには、「私」には何もおそれるものはない、と断言する。次の段落(8~9節)では、そうした救いの経験をふまえ、読み手を諭すかのように、神ヤハウェのもとに身を避けることは人間への信頼にまさる、と語る。

     人が「キリスト・イエスに結ばれている」目に見える徴が洗礼である。洗礼とは何よりも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:15)と言われたイエス・キリストに結び付けられる出来事である。宗教改革者マルティン・ルターは、自分の信仰が動揺すると「わたしは洗礼を受けている」と自分に向かって叫んだ。洗礼を受けているという事実が、ルターも「キリスト・イエスに結ばれている者」の一人であることを確信させた。洗礼を受けているという事実は、「神の霊が宿っている」という事実のいわば外的保証であり、肉の思いの攻撃で高揚しやすい私たちを主にあって慰めてくれる恵みの手段である。人間の感覚や経験以上に確かなのが、洗礼を受けているという事実であり、そのことによって「キリストの体」である教会を通して、このわたしも「キリスト・イエスに結ばれている」という事実である。このことに感謝し、いつも覚えていたいと思います。お祈りをいたします。