カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜びを伝える

    2021年3月24日
    出エジプト14:15~22、マタイ28:1~10
    関 伸子牧師

     Happy Easter! 十字架で殺されたイエス・キリストが三日後に墓から復活された。このことを喜び祝うイースター礼拝をささげています。最近、荒瀬先生が編集された『イースターへの旅路』という教会暦による説教集に収められている関野和寛先生の聖金曜日の説教の語り出しに驚きました。「『わたしはイースターおめでとう!』とイースターに交わされるこの挨拶が私は大嫌いだ!『おめでとう!』は復活したイエスに行ってほしいと思うが、しかし十字架で殺されて復活したイエスに『おめでとう!』というのはどこか白々しくこちら側が傍観者のように感じてしまう。“Happy Easter”と挨拶を交わすキリスト教圏でイースターが定着している世界と、国民のほとんどがイースターの日の意味を知らない日本では、その言葉のへだたりはとても大きい」。こんなこと言っていいのかと思いながらも、説教者が身をかけて語ることばがとても新鮮に心に響きました。

     実際、イエスの十字架と復活はどのようだったか、私たちには分からない。イエスの死は弟子たちを混乱させ、引きこもらせた。しかし、女性たちはくじけなかった。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。4つの福音書は最初に「墓を見に行った」のは女性たちであると語っている。

     私たちには、地上の生涯を終え、天に召された人との別離には心残りがある。死に飲み込まれ、別の世界に引き裂かれるという切ない思いになる。それゆえますます、生前の温かい心の絆を断ち切ることはできなくなる。マグダラのマリアたちはそのような思いをもって、居ても立ってもおられず墓に来てしまったのではないか。

     その女性たちに、主の復活が告げられ「婦人たちは、恐れながらも多いに喜んだ」のである。「恐れることはない」(5節)。女性たちは「十字架につけられたイエス」を必死になって捜す。しかし神の使い(天使)は、イエスがいるはずの墓が空であることを女性たち自身が確認しなければならないと言う。マタイはこのことを強調する。「女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)。

     しかし、マタイ福音書第28章1節から10節を読むと、この宣言にはまず「恐れ」が伴う。エジプトを脱出した人々が、「放っておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」(出エジプト14:12)と、古い自分を縛り付ける力から出ることを恐れたように、死からの解放は私たちに恐れをもたらす。死から解放された後、私たちは何の力に縛られて生きるのだろうかという不安に満たされる。「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。枝を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の渇いた所へ通ることができる」(出エジプト14:15~16)。神はファラオの戦車や騎兵を海の藻屑とした。神は人より強い。

     神はイエスを復活させた。そこで、天使からイエスの復活を教えてもらった女性たちは、恐れとそれ以上に大きな喜びに満たされた。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた「恐れることはない。行って、兄弟たちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(9~10節)。

     「おはよう」は原語でカイロー、直訳すると「あなたたちは喜びなさい」という意味です。女たちに対するイエスの「おはよう」というあいさつは、まるで眠りから目覚めた人の朝のごく自然な挨拶を思わせる。また、当時も一般に、幽霊には足がなかったと考えられていたから、この箇所はイエスが単なる幽霊ではなかったことをも示している。ここに、いのちに満たされて、走り出す女性たちの姿が描かれている。墓(死)に向かって歩んできたものが、いのちに突き動かされ、走り出すのである。

     イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、彼らにとって故郷である(ユダだけが違っていた)。だから本来ならガリラヤに帰れと言うべきである。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。そこに福音を携えた者の姿があると思う。主イエスの復活に出会い、新しく使命を与えられたものには、もはや帰るのではなく「行く」世界だけである。マリアは逃げたままの弟子たちを追いかけて行く。それが自分の家であれば、自分の家に行くのである。

     イースターの朝、恐れながらも私たちは「キリストは復活された」と叫ぶことができる。復活のこの日は喜びの感覚が満ちあふれている。出エジプトを経験したものが、まず最初に喜びの歌を歌ったように、今日、私たちは「キリストはまことに復活されたのです」と高らかに歌いたい。祈りをいたします。