カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • まことのぶどうの木

    2021年6月13日
    イザヤ書5:1~7、ヨハネによる福音書15:1~10  
    濵崎 孝牧師

     キリスト・イエスさまは、ご自身を「ぶどうの木」にたとえて福音を語られましたね。主イエスさまはぶどうの木、私どもキリスト教会の一人一人はその枝だとお教えになったのです。でもどうしてイエスさまは、「私はまことのぶどうの木」(1節)と言われたのでしょうか。旧約聖書のメッセージにふれて福音を語ったからです。

     イザヤ書や旧約聖書には、言わば『いつわりのぶどうの木』のことが語られているのです。肥沃な丘のぶどう畑(イザヤ5章1節)、「彼は畑を掘り起こし、石を取り除き/良いぶどうを植えた。/また、畑の中央に見張りのやぐらを建て/搾り場を掘った。/彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ」(2節ab)。「ぶどう畑に対してすべきことで/私がしなかったことがまだあるか」(4節a)。ぶどう栽培者の神さまから、もうこれ以上はないという手入れを受け、豊かに実を結ぶことを期待された枝に、「酸っぱいぶどうが実った」(4節)というのです。そして、そういう期待外れが神の民の現実だったのです。「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。/ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。/主は公正(ミシュパート)を待ち望んだのに/そこには、流血(ミシュパーハ)。/正義(ツェダーカー)を待ち望んだのに/そこには、叫び(ツェアーカー)」(7節)。エレミヤ書2章21節の預言は、「あなたを確かに純粋な良いぶどうとして/植えたのは/この私だ。それなのに、私にとって質の悪い/異国のぶどうに変わり果ててしまうとは/どういうことか」と語っています。主イエスさまは、こういう旧約聖書の歴史と神の民の罪を想起させつつ福音を語ったのです。「まことの」というのは、「真実の」ということであって、教会とその一人一人は、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)キリストに生き生きとつながることによって信実な教会、信実な人間になることが祝福されるのです。

     ヨハネによる福音書では、キリストの「私につながっていなさい」(4節)や、「私の愛にとどまりなさい」(9節)という呼びかけなど、つながりを表す言葉が何度も語られています(つながるもとどまるも、原語のギリシア語では同じメノー)。それらを数えてみれば、何と13回、新共同訳よりも1回増えました。イエスさまは、私どもが麗しい実を結ぶような歴史や人生を形成したいと願うなら、ご自身に生き生きとつながり、そういう生命的な交わりにとどまり続けることはどんなに大切か……ということを教えたのです。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節c)。━━もし私どもが、「私につながっていなさい」と語りかけてくださったキリストのご慈愛を見失い、ほんのちょっとでもキリストから離れるなら、私どもの人生は枯死してしまうのです。そして、キリスト・イエスさまのようなお方が、「私を離れては、あなたがたは何もできない」(5節c)と言われたこと、これは、心の板に刻んで憶えないといけないお言葉ですね。今は、密接を避けるよう、ソーシャル・ディスタンスが呼びかけられている感染症蔓延の時代ですが、慈しみ深い神さまに喜んでいただく人生を願う私どもは、キリストというぶどうの木に密接して繋がり、そういう関係にとどまり続ける枝として生きることは絶対に欠かせないのです。

     全国紙Aで、松戸市の中丸鉄丸さん(会社役員72歳)の思い出を読みました。「ひとり静かに過去を顧みて面白い体験談がある。それは、独身のアパート暮らしのサラリーマン時代の出来事である。会社の重役から、時間の都合で大金を保管してほしいと持ち込まれた。 重役の去ったあと、入れ違いに神戸の母が危篤の電報を受けとった。その夜の中に出発せねばならない。現代と違って電話が自由な時代ではなく、それにもまして大金の保管である。夜間で、銀行はなし、親類や先輩では遠く、ほとほと困った。信ずる人に、ことに現金であるだけに、考え抜いたすえ、このアパートの管理人が浮かんだ。この人は、私と同様独身者で、ひと口でいえば愚直なタイプ。理由は、毎日曜日教会に礼拝を欠かさないことだけである。私は、キリスト教信者でもなく、宗教を否定する者でもないが、彼が礼拝を欠かさぬ行為を見て信頼していたのである。 その夜、彼に依頼して車中の人となったが、不思議なことに一度も不安を感じなかった。そして結果は、私の期待を裏切らなかった。いまだに深い印象として残っている。」(これは、キリストに密接して麗しい実を結び、それによって神さまが栄光をお受けになったという信仰の証しでは……)

     今は、クラスター(感染者集団)という怖い言葉を繰り返し聞きますね。クラスターという言葉は、聖書の中でも語られています。例えば、創世記40章10節には、「そのぶどうの木には三本のつるがあり、それが芽を出し、花を咲かせ、ぶどうの房が熟しました」とあります。その「房」が、英訳聖書では the clusters です。皆さん、キリスト・イエスさまは、ぶどうがお好きです。嫌なクラスターではなく、私どもは甘く熟した葡萄のクラスターをおささげしたいですね。どうぞ、まことのぶどうの木からその命や慈愛をいただきつつ、美味しいぶどうの実を豊かに結び、それをイエスさまに喜んでいただく教会生活を進めましょう。