カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主のいのちの響きに呼応して

    2022年10月2日
    出エジプト12:21~27、マルコ14:10~21
    関 伸子牧師

     先ほどお読みしたマルコによる福音書第14章12節以下には、私たちが今日聖餐式として祝っている食事の原型があります。過越の食事を祝うイエスは、既にご自分が人々の手に渡されることを知っていました。それは過越祭に屠られる小羊としてのご自分の姿でした。それはもともとユダヤの過越の食事でした。

     過越の祭りはペサハと呼ばれ、真夜中に神がエジプトのすべての初子を殺した時、天幕の柱に犠牲の動物の血を塗りつけたイスラエルの家を飛び越したことから由来します(出るエジプト12:1~20)。語源を同じくするパサハという動詞が、飛び越すとか過ぎ越すという意味を持ち、神がイスラエルの民を過ぎ越したことから、この祭りをペサハと呼ぶと聖書は説明します。しかしペサハとはもともと春の到来を祝う祭りでした。イスラエルが遊牧民だったとき、春の訪れを感じる月の満月の日に、全員が参加して羊や山羊を屠る儀式を行いました。そしてこの儀式には天幕の柱に犠牲の動物の血を塗りつけるという特異なしきたりが従ったと言われています。やがてその伝統的儀式は出エジプトの出来事によって意味づけされ、民族の解放と救いを祝う過越の祭りとなりました。。

     日本語の「血」にはまったく欠けた見方ですけれども、聖書の世界では「血は生命の担い手」とされています(レビ17:11)。ですから、血は創造者たる神の直接の支配下に置かれ、人の血を流す殺人は神の報復を招く重大な罪であり(創9:5、マタイ23:35)、動物の血を口にすることも禁じられていました(レビ17:11)。神の定めた血の役割とは、罪の贖いにありました。出エジプト記第12章21節から27節は、「主の過越」の記念となる出来事を記しています。モーセは、過越の犠牲を屠り、その血を鴨居と入口の二本の柱に塗りなさいと、命じました。主なる神が過ぎこされるしるしとされるものでした。イスラエル共同体の、毎年の過越祭で行われる儀式であり、そこでは「犠牲の血」がささげられていきます。犠牲には、「傷のない一歳の雄の小羊」を屠らなければならないとされました。その肉を火で焼いて食べる他に、酵母を入れないパンに苦菜を添えて食べるとされたのです。

     マルコによる福音書第14章12節以下に描かれた出来事は決して珍しい出来事ではありません。男が水を運ぶ場合、水がめではなく皮袋が普通であったから、「水がめを運ぶ男」は目立ったでしょうが、男が水を運ぶのは珍しくはない光景でした。また、エルサレムの住民は地方から巡礼客が過越の食事ができるように部屋を提供

     する決まりがあったから、家の主人が見知らぬ者の願いを聞くのもおかしなことではありません。確かに12節の弟子たちの言葉を直訳すると次のようになります。「あなたが過越の食事を食べるために、我々がどこへ行って用意することをあなたは望みますか」。「あなた」が主語になっていますから、マルコでもイエスの意志に重点があるのは明らかです。弟子たちはイエスの意志を尋ねているのであり、過越の食事を食べるのはイエスであることを強調しています。

     ですから、食事の模様を描く後半部(22節以下)には、普段の過越の食事にはない言葉が語られます。それはパンとぶどう酒を説明する言葉です。イエスはパンについて「これは私の体である」と説き、ぶどう酒について「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である・・・・・・」と教えているからです。こうして、パンが裂かれ、ぶどう酒が飲まれるところには、神の救いの業が現実となっています。最後の晩餐が過越の食事であったかどうかは大事な問題ではありません。そうであるにせよ、ないにせよ、この食事はどの食事をも超えた食事です。この食事に与る者はイエスの死がもたらした救いの現実に飲み込まれるからです。
     
     「人の子を裏切る者に災いあれ」(21節b)。イエスはユダの裏切りを知っていました。そして、それを知りながら、イエスはユダと弟子たちに聖餐を与え、自分を引き渡すユダの接吻を受けます。イエスの十字架が呪いを祝福へ、背きを赦しへと変えるからです。

     聖餐は一方において、それにあずかる者たちを主イエス・キリストに結びつけ、それと同時にもう一方において、彼らを、主の血と肉とを共有する信仰の家族とさせます。このような食卓におけるキリストとの現在の交わりは、将来の天国の宴の先取りであり、主との交わりの真お成就の先取りであるために、喜びの食卓となるのです。「よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)。主はこう言われて、この食事の、すなわち聖餐の、きわめて重要なことを語られました。罪の赦しを自分のものとして与えられる時、弟子たちは救いの共同体となります。私たちも主に愛され、罪赦された者として、主イエスが差し出す賜物を受け取り、遣わされたところで主に栄光を帰す働きをしていきたいと思います。お祈りします。