カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 静けさの中に立つ

    2022年10月16日
    イザヤ書25:1~9、ヨハネの黙示録7:1~17
    関 伸子牧師

     聖書には、私たちは死後、すぐに主イエス・キリストのみもとに行くと語られている箇所と、死後は眠っていて、キリストの再臨の日、終わりの日に復活して、キリストの御前に立つと語られている箇所があります。しかし、やがて復活して救われるまで眠っているとしても、その眠りも主イエスによる神の恵みの支配の中にあるのですから、どちらも互いに矛盾していません。そして、特に、この終わりの日について語っているのが、ヨハネの黙示録です。

     ヨハネの黙示録は、紀元後90年代後半に描かれたと見られています。当時、小アジアはローマ帝国の属州であり、特に95年頃はドミティアヌス帝の支配のもと、教会への迫害が激化した時期でした。黙示録第7章は、第6の封印が開かれると、宇宙大の異変がおこり、すぐにも終末の到来に至ることが告げられました。ところが第7章になると、迫害時代の教会の描写となっています。

     ヨハネの黙示録第7章では幕間劇のように、神の民に対する神の保護が二つの幻によって告げられます。第一の幕間劇(7:1~8)は、第六の封印の締め括りの問いに対する答えとなっています。すなわち「主の日の怒りと破局に一体誰がたえられるであろうか」という問いに対する答えです。

     「また、私は、別の天使が生ける神の刻印を携え、日の出る方から昇って来るのを見た」(2節)。当時、自分の所有の動物や奴隷などに、一生逃げられないように印を押していたように、神が御自身の所有とされるものに記しを押していたということです。神のものとされ、整えられていくまで風で押しとどめられている。つまり、世界の中で救われるべき人が救われるまでは、天使たちがいろいろなものを押しとどめ、救いに至らせるということです。その数は、14万4千人とされていますが、それは「イスラエルの12部族×1万2千(1000x12)」に基づいており、殉教者の数が満ちたことを表す完全数です。また、彼らが古いイスラエルの部族から選ばれているようにも見えるのも象徴的な表現で、実際には、「あらゆる国民、民族」からなる「数えきれないほどの大群衆」が新しい神の民として選ばれるのです。

     第二の幕間劇(7:9~17)は「大きな苦難を通ってきた者」が終末的救いに与る様子を描いています。彼らは、すでに天上にあって、白い衣を着て、救いのしるしであるなつめやしの枝を持ち、神の玉座の前と小羊の前で、「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある」(10節)と讃美を歌っています。

     ここで、小羊とは、私たちの罪の赦しのために、私たちに代わって十字架で死んでくださった主イエス・キリストのことです。ちょうど、出エジプト記にあるように、昔、小羊がほふられて、その血によってイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救われたように、主イエスは十字架で、いわばほふられて、私たちを罪の奴隷状態から救ってくださったからです。そして、この小羊なるキリストは復活して、天上で父なる神と共におられて、今、讃美を受けておられるのです。

     すると、玉座の前に立っている長老の一人が、この「白い衣を着た者たち」について「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言います。小羊なる主イエスの血で洗って白くしたと言うのは、血は赤いので不合理な表現ですけれども、これは比喩です。彼らを汚れや罪から清めたのは、彼ら自身の行いではなく、「小羊の血」です。終わりの日には、地上での単なる義認や聖化という範囲を超えて、私たちキリスト者は、主イエスによって完全に罪から清められることを現わしています。

     それにしても、これから、終わりの日に先立って悪の力が増し、迫害殉教の苦難の日が続くというのに、キリスト者はすでに天上にいるとは、どういうことか。これは実は未来の先取りなのです。これから、終わりの日に向けて起こる激しい苦難と迫害の中でも、信仰を捨てずに守り通す人々は、やがて完成する神の国に迎えられる保証として、信仰においては、今すでに天上にいるのだと語られているのです。この信仰の真実の確信に立って、厳しい苦難の現実を耐え忍びなさいと勧められています。

     これは、この時代に生きる私たちに語られています。たとえ、どんなに苦しい人生を送ったとしても、また、その苦労を誰にも理解されず、この地上では少しも報われないとしても、そのすべてを見ていて、終わりの日には、私たちの涙をぬぐってくださる神と等しい神の子が待っていてくださるのですから、無駄になることはひとつもありません。

     私たちキリスト者にとって、すべての苦難は命を得させる苦難であり、やがて迎える死とは、命への門なのです。死後には、神と共に住み、神を喜び讃美する永遠の命が待っています。それゆえ、主日礼拝ごとに、主を讃美しながら、現在の信仰生活、教会生活を死に至るまで守り、そのようにして死への備えをさせていただきたいと思います。祈ります。