死に対する勝利
2024年9月22日
イザヤ25:7~10、コリント一15:50~58
関 伸子牧師
今朝は、先に天に召された方々を覚えて召天者記念礼拝をささげます。週報に召天者名簿がはさまれています。その名簿にある方たちの多くは、この礼拝堂で共に礼拝をささげられた、私たちが親しくしていた方たち、その愛する家族でした。
今年は3月7日にOMさんが天に召され、13日に葬礼拝を行いました。90歳の地上の命でしたが、若い日に洗礼を受け、生涯、主の業に励んだ方でした。阪神・淡路大震災後の心のケア・ネットワークの活動に賛同し、OMさんが身を寄せていた芦屋西教会が活動拠点となりました。生涯主の業に仕えて、天に召されました。
先ほどお読みしましたコリントの信徒への手紙で、パウロは、福音を語り、キリストの復活に至り、それに基づいて、人間の復活について記してきました。復活の福音を説いてきたパウロは、第15章の最後で復活の奥義を語ります。51節には「わたしはあなたがたに秘義を告げましょう」と書いてあります。これだけは、確かな神秘であるといって、結論のようにして書いて来たことの秘密があるというのです。
その奥義をどう語ったらいいのでしょう。死の後の復活のことです。だれも見て来たことのないことです。それなら、それにふさわしい言葉をもって語らなければなりません。その当時にあった、たとえば、ヨハネの黙示録に書いたような書き方が必要なのです。そこにもラッパが出てきます。それは、実際に、ラッパがどのように鳴るとか、ということではないでしょう。ラッパというのは、神が、その宗厳なご計画を告げて、人間の生活の中に入って来られることを告げるしるしです。
終わりのラッパ、終末の時に吹かれるラッパのことです。ラッパが鳴る時というのは、神のみ力が働くとき、ということでしょう。それは「たちまち、またたく間に」起こる。神がその恵みの力をもって働かれるとき、一切のものは変化する。一瞬のうちに。このことは必ず起こる。神の恵みの計画の「必然」であって、このことこそ、ここでのパウロの主題なのです。
「朽ちるべき死ぬべき人間が、朽ちない死なないものを着る」とは、死ぬべき人間が復活のキリストに出会うことによって、死を超える命を得ることができることを表しています。人は死を恐れる必要がなくなりました。なぜなら、死の先にあるのは滅びではなく、復活の命だからです。朽ちる、滅びる、死ぬべきもの、といわれていますが、実際には、何であるかは記されていません。それは、滅びゆく肉の言葉をもっては言うことのできないもの、ということでもあるでしょう。それにもかかわらず、朽ちるもの、朽ちないものといわれると、大体のことは、見当がつくのではないでしょうか。
さらに、パウロは「死よ、お前の棘はどこにあるのか」という問いに対して、自分から「死の棘は罪であり、罪の力は律法です」(56節)と答えます。人が死を恐れるのは罪があるからであり、その罪は律法を通して力を発揮していました。しかし、主イエス・キリストによって罪が完全に取り除かれた今、もはや死は「とげ」ではありません。
死の棘が罪である、ということは、ローマの信徒への手紙の死の報酬は罪である、を思い出させます(ローマ3:23)。おそろしさは、肉体の苦痛、寂しさ、不安、孤独などでもあるかもしれませんが、それが、罪であるとは考えにくいのです。ローマ書が罪の報酬と言っているように、罪は、死をもってしか、むくわれることがないのです。
しかし感謝すべきことは、その罪が、キリストの救いによって赦され、その律法から、この救いによって解放されたのです。このようにして、神は、キリストによって、わたしたちに勝利をお与えになったのです。コリントの信徒への手紙もローマの信徒への手紙も、いずれも、神の救いを語るものである、とパウロは考えているのでしょう。
パウロはコリントの人々を、そして、私たちに「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」と励まします。(58節)。信仰に堅く立つことは、ここでは、もちろん、復活の信仰に堅く立つということでしょう。その信仰は、まことの望みを与えますから、どんな時でも力をもって励むことができるのです。いつも、ますます、主の業に進んでゆくことのできるものになってほしい、というのです。
なぜそうなのか。それは、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているからです」(58節)。人生は、労苦なしに過ごすことのできるものではありません。しかも、その労苦について、確信をもつことができないのです。どのわざも過ぎゆくもの、空しく消え去るものです。しかし、信じる者は、その信仰によって、その業が、決してむだになることがないことを知っているのです。それが、信仰者が、励むことのできる唯一の根拠です。
この手紙は、最後になって、壮大な頂点がきました。しかも、霊の賜物から、愛を語り、教会の礼拝について証ししたのちに、復活についての大いなることが書かれました。それによって、信仰が何であるか、その望と豊かさを語って、主にある者の生活の確かさを教えようというのです。
みなさんは、家族を天国に送って、今でも、ふと寂しくなることがあると思います。しかし、神様はそのようなわたしたちの心もよく御存知ですから、わたしたちは、命ある限り、「主のわざに励む」ことを、神さまに愛されている者として、信仰の先達の方たちに倣い、主の恵みに答えていくことを、互いに祈りで支えられて、行っていきたいと思います。お祈りいたします。