カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • とらわれずに生きる

    2023年9月3日
    箴言25:2~7a、コリントの信徒への手紙二 111:7~11
    関 伸子牧師

     パウロはコリントの人たちに、「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、私の罪になるのでしょうか」と問いただしています。「自分を低く」したのは誰でしょう。それはパウロです。「高めるため」とは誰でしょう。コリントの人たちです。

     パウロは、ひとりの伝道者として、いろいろ苦労があったと思います。その中の大事なことのひとつは、お金の問題でした。まだ、教会堂もなかった時代であったにちがいありません。何の費用もかけずに伝道することは、不可能であっただろう、と思います。したがって、ここに書いてあるような非難も生まれたのではないでしょうか。パウロがある教会のためにつくすと、それは、まるで彼が、どこかの教会からかすめとってきたものを用いたかのように言われたのです。

     パウロは、ある教会から得た費用で、他の教会を助けました。それは、いつの時代にも必要なことなのです。なぜならどちらも主イエス・キリストの教会だからです。パウロはユダヤ人として、すべての良いユダヤ人と同じように、とりわけ良いラビと同じように、自活できる手職を身につけていました。恐らくこの手職は、タルソスが中心地のひとつであった、皮製品や毛皮を用いるものだったと思われます。パウロはコリントでもこれを行っていましたが、ある段階ではマケドニアのキリスト者からの献金も受け入れていました(9節)。恐らく、パウロが去った後の教会からは、喜んで援助を受け入れたと思われます。それによって、パウロは宣教に専念することができたからです。しかし、最初に新しい町に行った時には、パウロは自分の生活のために働かなければなりませんでした。そうすることによって独立することができて、まだ日も浅いキリスト者に負担を負わせることがないためです。

     しかし、そういう生活は、どうしたら正しく行うことができるのでしょうか。パウロはここで、キリストの真理にかけて言います。キリストの真実がわたしの内にある、というのです。ここに語られているような生活は、キリストの真実によってだけできる、といことです。キリストの真実は、誤ったものを許し、正しくする力を持っているはずです。ですから、私の内にあるキリストの真実にかけて、というのは、神の力によって生きている者、したがって、神の力によって救われた者のことでしょう。

     パウロは言っています。「私は今していることを今後も続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇れるようにと隙を狙っている者たちから、その隙を絶つためです」(12節)。すなわち、「偽使徒」「人をだます働き手」「サタンに仕える者たち」に口実を与えないため、自分たちはパウロを養ってやっているのだと言って彼らが誇る機会を断ち切ってしまうための配慮だったのです。

     ここで問われることは愛です。「私があなたがたを愛していないからでしょうか。それは、神がご存じです」(コリント二11:11bc)。パウロはここで、いきなり核心をつくことを言いました。自分は、あなたたちに伝道している、その自分があなたたちを愛していない、とでも言うのか、と一番中心になることを、ずばりと言ってのけました。

     パウロはここで「決してだまされるな」とは言っていません。むしろ「しかし、驚くには及びません。」「彼らの最期は、その仕業に見合ったものとなるでしょう。」と言います。光の天使を偽装してくる悪魔がいても、さして驚くにはあたらない、たとい聖徒がだまされても、神は見ておられる、悪魔の終わりは、神の定めの通りになる、と言っているのです。私たちは、悪魔に対して大騒ぎすればするほど、悪魔のわなにおちいります。傷口をそっとしておけば自然になおるのに、それをひっかきまわして、いっそう傷口を大きくするようなものです。アッシリアが攻めてきた時、あわて騒いだ王や民に対して、「主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。『立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそ あなたがたの力がある』(イザヤ30:15)と預言者イザヤは神の言葉を告げます。サタンの本質は、神を小さく見せ、現実を大きく見せる点にあります。「神の力は小さい、今あなたの直面している危機は大きい」、サタンはいつもこう言って、私たちの信仰に水を注ぎます。けれども神の信徒は、悪魔の力の小ささを見抜いています。そしてその時、ほかでもなく、神の力がとても大きくなります。果たして私たちにこの信仰があるでしょうか。

     パウロはコリントの教会からは自由でありたいと願ったのです。自由である分、まったく神の義を語る言葉によってのみこの教会の人々に関わろうとした。そのように、少なくともコリントの教会においては、自分は真実のキリストの使徒であろうとしました。「わたしの内にあるキリストの真実にかけて」(10節)。ここにパウロがひたすらに願ったことがあると思います。私たちはこのキリストの真実を知らされている者として、報酬を得ても得なくても、とらわれずに福音を宣べ伝えて行きたいと思います。お祈りをいたします。