カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 光の射す途へ

    2023年12月3日
    イザヤ書52:1~10、ヨハネによる福音書7:25~31
    関 伸子牧師

     待降節第1主日の礼拝をささげています。教会暦では待降節から新しい年が始まります。日本の状況において、待降節は、「待つことの出来ない」時期でもあります。教会にとっては、クリスマスに向けての準備の時ですけれども、街中はすでにクリスマスを迎えたかのようにクリスマスが祝われていますが、私たちはイエス・キリストの到来に向けての準備する時でありたいと思います。

     クリスマスの準備のために私たちが気をつけなければならないのは、主イエスのことは私たちがいちばんよく知っているという意識ではないでしょうか。今日のヨハネによる福音書第7章の箇所において、「知っている」という言葉がキーワードの一つになります。イエスを囲む人々はイエスが何者であるかを知っています。「知っている」ということは、単に情報を持っているというだけではありません。自分の理解の範疇に収まっているということでもあり、自分の掌中にあるということでもあります。人々はメシアとはどういう者であるかも知っていると主張しています。しかし、主イエスはこの人々に対して、御自分がいったいどこから来たのか、つまりイエスが神から来たものであることを「知らない」と反論しています。

     時は仮庵祭、出エジプト、特に荒れ野の仮の宿の生活を思い起こしながら、イスラエルの人びと、特にエルサレムの都にある人びとが一週間にわたって仮小屋に住んで、毎日神殿に出かけて行って祭りをしたその時です。その祭りの最中に主イエスが神殿で教えておられます。その姿を見てヨハネによる福音書第7章25節を読みますと、「これは、人びとが殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない」と言われました。ここは、イエス・キリストの支配とは何か、神の支配とは何か、ということを甦りの光の中で語っているところであるということができます。ここにはキリストの復活について語る言葉はひとこともありません。しかし、この福音書が終わりに至って丁寧に語るキリストの甦りの出来事からの、柔らかくて確かな明るい光がここに射していると読むことができる。そう読まないとここに記されている言葉の意味は分かりません。

     宗教的指導者たちは、イエスに対して否定的な反応をしていました。自分の権威が脅かされ、否定されるという思いをもったのでしょう。あるいは「もしもこの男が正しいのであれば、我々は一体何をやっているのか、ということになってしまう」と、躍起になって否定したのかもしれません。それをすりかえて「神が冒涜されている」と、主イエスを非難したのです。みんながそうだったわけではありません。

    群衆の中には、イエスをモーセやエリヤのようなしるしを行う預言者的存在として受け入れる者もいました。彼らは、神から遣わされたものであるというイエスの言葉やその使命によって信じたわけではありません。しかし、彼らの存在によって、ユダヤ教当局者のように知識によってイエスを信じない者と、この人々のように自分の経験によってイエスを信じる者との対比が示されています。

     この箇所を読んで最も印象に残ったのが「私たちは知っている」という言葉です。ファリサイ派の人々は自分が知っていることを誇りにし、そこに大きな価値をおいています。彼らは、イエスの出身地を知っています。イエスが何ものであるかを知っているのです。イエスがメシアでないことを知っています。律法の教えを知っており、メシアがどのように現れるのかを知っています。しかし、彼らは知識に縛られることによって真のイエスに出会うことがありません。もちろん民衆の中でも「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」(41~42節)と、聖書に関する知識に固執することによって、イエスを理解できないものもいます。

     イエス・キリストは、「自分がどこから来たのか」についてだけではなく、「どこへ行くのか」についても、語られました。「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る」(33節)。父なる神のもとから来て、父なる神のもとへ帰っていかれたお方、イエス・キリスト。そのお方は、今日も私たちに問いを投げかけ、迫ってこられるのです。

     主イエスが道であられるということは、確かなことです。私のために、私が祈れなくても私のために祈ってくださる方があるから、その方に取りすがることができる。このことは皆さんにとっても確かなことです。皆さんもその確かな祝福のなかにあります。御自分におけるキリストの祝福を信じていただきたいと思います。この後、聖餐にあずかります。聖餐にあずかる者は、まさにそのような意味において、私たちをいのちの祝福の中に置いてくださる主とひとつになることであり、そのことによって、深い平安を心に刻みつけていくことなのです。主イエス・キリストのご降誕を待ち望むこの期間、どのようなところにあっても、心に平安を持って、主を待ち望む日々に祝福がいつも豊かにありますように。