カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストは天から来られる

    2020年6月21日
    ハバクク2:1~4、ヨハネ3:31~36
    関 伸子牧師

     ヨハネによる福音書第3章31節から36節には、私たちの信じているイエス・キリストがどのようなお方であるのか。どこから来られたのかが記されています。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」(31節)。

     これは、「天から与えられなければ、人は何も受うることができない」(27節)というヨハネのことばに関連しています。人はすべてのものを天よりの賜物として受け取りますが、イエスはすべてのものを天より来られた神の子として支配される。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)とヨハネが言ったように、ヨハネは衰えるのに反して、イエスは栄光をお受けになる。しかし、直接天から遣わされて来たわけではありませんが、洗礼者ヨハネは父なる神から任務を与えられ、この地の上にいてイエスが天上からくる準備をした。これに対して、地からの人とはヨハネの指し示したイエスを信じようとしないユダヤ人たちのことです。

     ヨハネは言う。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」(32~34節)。ここに大切なことが記されています。「神がお遣わしになった方」、つまりイエス・キリストは神の言葉を話しますが、神の言葉を話すということと、霊を限りなく与えるということが一致しています。新約聖書には三位一体という表現はありませんが、共観福音書が証言するイエスが洗礼をお受けになる物語には内容として、天から父が愛する子と呼びかけ、その愛の呼びかけは鳩のように降ってくる聖霊による。まさしく三位が一体となっています。

     この箇所は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)と主イエスが言われたことと深い関係があります。父なる神はその独り子のいのちをこの世の人々に与えたが、その独り子には聖霊が無限に与えられている。したがって、神の独り子を与えられたこの世には聖霊が与えられる。この聖霊は、人々の間で具体的に愛や喜びや平安(ガラテヤ5:22~23)という形で実現し、イエス・キリストの賜物のはかりに応じて、人々には使徒や預言者や教師という様々な役割が豊かに与えられるのです。

     ある注解者が次のようなことを記していているのを興味深く読みました。キルケゴールは「死に至る病」の冒頭で「人間とは精神である。精神とは自己自身に対する関係である」と人間を定義している。つまり、人間精神とは自意識のことだと言っている。救いとは何かを端的に言えば ”I love you.”と自分に向かって言えた瞬間ではないかと記す。自己嫌悪のなかに引きこもってしまう私たちです。主イエスは部屋の外に立ち心の扉をノックされる。私たちが心の扉を開くならば、主イエスに豊かに与えられた霊が注がれる。そのとき罪の赦しによって「私はあなたを愛する」と自分に言うことができる。それが霊のわざであると思いました。

     神の言葉を信じる信仰について思い巡らしながら、「ハイデルベルグ信仰問答」の問59を読みました。問59「それならば、このすべてを信じたら、あなたは、どんな益を、受けるのですか。答「わたしは、キリストにあって、神の前に、義となり、かつ、永遠の生命の世継ぎ、となるのであります。

     「義となる」、信仰問答はここで「神の前に義となる」と丁寧に言っています。義となるというのは、たとえば、ひとつの種を地に蒔くと、それがぐんぐんと伸びて、ひとつの実を実らせるようになるというようなことです。別の言い表し方をするならば、あなたはどのようにして、神の前に自分自身を義とすることができるか。しかし、ここでは、自分で手に入れるような義ではなくて、自分が義とされることによって、義となることができる。義とならせていただく、そこに真実の神の義に生きる道があると教えます。そこで、そのために必要なことは何だろうかと言うのです。この言葉の中に既に、人間が自分で何とかするというのではなくて、神さまにしていただくそのことをちゃんと受け止めなければいけない。まさに、「受けとめる」ということが、ここで何よりも「信仰」と呼ばれている心です。

     私たちは、礼拝が終わると、自分の家に帰ります。それぞれの家に、あるいは、遣わされるべきところへ向かいます。けれども、いつか分かりませんが、その時が来たら、私たちは本当に帰るべきところ、天の家に帰る。天から来られた方が、ご自分の命をもってその場所を用意してくださる。私たちは、今、地のある者として生きていきます。いつも疑いや迷いの中で、時に苦しみや悲しみの中で、本当はどこから来て、どこへ帰るのかを見失ってしまいます。しかし、天を仰ぎながら、やがて帰るべきところ思い起こす。そして、天から来られた方、主イエスにすべてを委ね、主の御言葉と祈りのうちに日々新しくされて、喜びと希望をたずさえ、主を証して、地にある者として歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。