カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 命に至る真の道イエス

    2020年6月28日
    出エジプト記17:3~7、ヨハネによる福音書4:1~26
    関 伸子牧師

     イエスと出会ったサマリアの女がイエスを信じた。この物語はヨハネ福音書のみが記すドラマティックな物語です。主イエスは「ユダヤを去り、ガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(4節)。ユダヤからガリラヤに行くには、必ずしもサマリアを通らなければならないことではなかった。しかし、通過しなければならなかったと書いてあるように、しいられることがイエスにもあった。

     「それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた」(5節)。この物語の開幕です。「そこにはヤコブの井戸があった」(6節)。イエスは、サマリアにあるヤコブの井戸のそばに座っておられます。そこへ午後の12時頃、最も暑い時間に人目を避けるようにして水がめをかかえた一人のサマリアの女が水くみにやってきた。この女にイエスは「水を飲ませてください」(7節)、直訳すると「私に飲むことを与えてください」と声をかけます。女が考えていたのはふつうの井戸の水です。しかし、イエスが「飲むことを」と言っているのは、のどの渇きを癒す水と生きた水とを区別しているのでしょう。

     その区別に気がつかない女はイエスの願いに皮肉交じりに反問します。「すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むですか』と言った」(9節)。ユダヤ人とサマリア人とは「交際しない」というのは、交友していないという意味と同じ容器を使わないという意味とがある。サマリアの女の問いの背後にはユダヤ人とサマリア人との確執がありますが、イエスはそれとは全く関係なく、「生きた水」について話します。

     イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13~14節)。女はイエスに言う。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)。女は不完全な理解ながらも「生きた水」に関心を示し、心に一種の感動を呼び起こしたのです。そして、「その水をください」と願い出ます。

     この後、対話は一転して、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)という、この女にとってはもっとも痛いところにふれて来ます。せっかく水の話をしておいて、いよいよというときに、夫を呼んでできなさいと話しを変えられる。そして「今連れ添っているのは夫ではない」と言われた。その真意は何か。それは自分を隠したままで、神の恵みだけをいただこうとする者に対して、イエスはそのほんとうの姿をありのまま引き出そうとされたのではないか。

     自分の私生活をイエスに言いあてられた(16~18節)女は、イエスを預言者だと考え、ユダヤ人とサマリア人の間にある問題の一つ、礼拝する場所について真剣に問いかけます。19~26節では「礼拝する」という語りが繰り返されます。イエスの答えは、エルサレムとゲリジム山のどちらでもありません。イエスの到来とともに、場所とは結びつかない礼拝が「霊と真理をもって」ささげられる時が来ています。神は霊であり、場所に限定されることがないからです。2年前、東京三教会合同主日礼拝を国立のぞみ教会を会場として行うことを決める合同小会で「礼拝は自分の属する教会でささげるものではないか」という意見があったことを思い出しました。

     まことの礼拝は霊と真理をもって父を礼拝すること。その時が来る。しかも、今がその時、とたたみかけるように情熱をこめて告げられる。サマリアの女性はイエスに「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われた時、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言った。そこで、イエスは女に言われる。「それは、あなたと話しているこのわたしである」(26節)。「わたしこそそれである(エゴー・エイミー)」とは、ヨハネ福音書にしばしば出て来るイエスの自己啓示を示す言葉です。イエスはこの女に対して自分が単なる預言者ではなく、キリストであり、神自身であることを示している。ここで私たちは、救い主、メシアとしてのキリストの前に立ち、信仰への決断を迫られるのです。

     人生はどの段階であってもすでに開始されている。その途中で主イエスに出会い、新しくされる。霊と真理とで神を讃美するように造り変えられる。そして、その喜びを次の人に伝える使命をいただく。ひっそりと生きていたであろうサマリアの女性との出会いが、主イエスのサマリア伝道の記録となった。教会がすべての人と共にキリストの豊かな愛の命に満ち溢れることを切に願います。お祈りをいたします。