カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • イエス・キリストへの信仰

    2020年7月12日
    ホセア書14:2~8、ヨハネ福音書4:43~54
    関 伸子牧師

     今日ご一緒に読むヨハネによる福音書第4章43節はこのように始まります。「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ帰られた」。イエスのガリラヤ行きには理由があります。「なぜならば、イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがあるからである」(44節)。

     主イエスご自身がそう言っておられると記されているのは、これに逆らうことができない社会的秩序があることを思わされます。共観福音書は「この人はヨセフの子ではないか」「大工の子ではないか」と言ったと記す。そこに主イエスが来られる。そして静かな湖面に石が投ぜられ人々は驚きつまずく。

     ヨハネはイエスがベツレヘムで生まれたとか、おとめマリアによって生まれたということを記さず、ナザレで生まれ育ったことを強調しています。イエスは父なる神がこの世を救うためにつかわした父なる神のひとり子なのです。イエスの行った奇跡によってではなく、その言葉によってイエスを信じること、それがイエスに出会うことなのです。

     ここで、ガリラヤの人たちが登場する。ガリラヤの人々は、「予期に反して」(塚本虎二訳)イエスを歓迎した。エルサレムにおいてもそうであったように、ここガリラヤにおいても、人々のイエスに対する歓迎は表面的であり一時的であった。なぜなら、ガリラヤの人たちはイエスを、奇跡を行う人として歓迎したのであり、真の預言者として、真の救い主として歓迎したのではなかったからである。

     その後、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カフェルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった」(46節)。ガリラヤのカナは、結婚式でぶどう酒が足りなくなった時にイエスが水がめの水をぶどう酒に変えたところ、イエスの最初のいやしがなされた場所です。

     そしてこのカナで、一人の役人の信仰をここに持ち出します。この王の役人は、イエスがエルサレムからガリラヤに来ていると聞いて、そのもとに来て、お願いしました。30キロも離れたガリラヤ湖畔の町カフェルナウムから、病気の息子を持つ王室の役人がわざわざイエスのもとまでやって来た。この役人は、ガリラヤとペレアの国王ヘロデ・アンティパスに仕えた人物である。その息子の病気が何であったのかは不明ですけれども、この子どもは重病で死にかけていたということである。どうか、いらしてくださり、自分の息子をいやしてください。死にそうですから、とイエスに願った。イエスは彼に向って言われた。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。この役人は退かなかった。そして、なお切実にイエスに求め続けた。王の役人はイエスに向かって言う。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(49節)。イエスは彼に言われます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。直訳すると「あなたの息子は現に生きているのだから、安心しなさい」。

     このイエスの力強い断言に続き、51節「その子が生きていることを告げた」、更に53節では50節の言葉がそのまま復元され「『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父は知った」とされている。ギリシア語は全く同じ「生きる」という言葉が3回繰り返され、命の与え手としてのイエスの姿がくっきりと浮かびあがる。

     そして、50節で「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とされているのですが、「言葉を信じて」の箇所に特別の強調点がある。それは48節の「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というイエスのいわば皮肉な、また否定的な挑戦に対して、しるしや不思議を見て信じる信仰ではなく、イエスの言葉を信じたというニュアンスがあるからである。ここで、目で見て信じる信仰と見ないで信じる信仰とが対比され、明らかに後者が優れていると言われている。奇跡によって信仰が生まれるのではない。これがイエスの求める信仰であり、信仰とは、イエスの言葉を聞いて信じることです。

     先ほどホセア書第14章の2節から9節をお読みしました。5節から神は、背くイスラエルの民を癒し、愛すると言う。9節の「あなたは、わたしによって実を結ぶ」という言葉がそれを裏付ける。神は「わたしは命に満ちた糸杉」という。常緑樹である糸杉は、常に命にみなぎっている「命の木」の比喩として語られています。その命は、神の語る言葉であり、神の言葉に従う者に結ぶ実としてある。「あなたは、わたしによって実を結ぶ」。この言葉に、わたしたちの真の慰めがあります。

     まずイエスの言葉を信じた王の役人は、この世の真の王であるイエス・キリストに仕えるキリスト者になったのです。私たちもこういうことを見ることができる。ただ主イエスの言葉を信じて立ち上がるならば必ずそうなる。そのことを信じて、愛する家族や友の救いのために祈りたいと思います。お祈りをいたします。