カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 雀の神はあなたの神

    イザヤ62:1~5,ルカ12:4-7 
    荒瀬牧彦牧師(神学教師・あさひ教会協力牧師)

     イエス様が弟子たちに言われました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。このことを、イエス様が「友人」として語り掛けているのは重要なことです。上から目線で無理難題を吹きかけているのではなく、同じ所に立ち、弱る時も一緒にいてくれる「友」として、怖がり屋の弟子たちに「恐れなくていい」と言ってくれているのです。

     そこで、登場するのが雀です。今日は「雀の日曜」にしたいなと思ってここに来ました。雀というのは我々にとってそうであるように、イエス様の時代の人々にとっても、ありふれた存在でした。 「5羽の雀を2アサリオンで売っている」と言われたら、屋台に並んでいる雀がすぐ思い浮かんだでしょう。アサリオンはローマの青銅の貨幣で、1デナリオン(労働者一日の賃金)の16分の1。高いものではありません。人々が特別な価値などまったく見い出さない小さな鳥です。でも、その一羽さえ、神がお忘れになることはない。

     ところでマタイ福音書10章26-31節と比べると面白いことに気が付きます。マタイだと2羽の雀で1アサリオンなのに、ルカだと5羽で2アサリオン。あれ?4羽で2アサリオンのはずが、なぜ5羽なのか。値をつけられないような小さな雀をおまけでつけたのでしょうか。

     以前、ある先輩牧師が「私はこの個所で支えられたのだ」と話してくれました。その先生は神学校の5人しかいない学年で、他の4人は優秀で立派なのに自分は勉強にも信仰にも落ちこぼれで、劣等感に悩んでいたそうです。でも、「おまけの5羽目も主は愛してくださる」と知って、自分のような者も必要としてくださるのだ、と励まされたそうです。なるほど面白いなあと笑って聞きましたが、今考えてみますと、これはイエス様の思いにかなった解釈ではないでしょうか。4羽で1セットのはずのところで、5羽目の雀だって忘れないのです。

     ヒズ・アイ・イズ・オン・ザ・スパロウという歌を御存じですか。――なぜ私はこんなにも落ち込み、孤独にふさぎこむことがあろう。イエスという友がおられるではないか。主の目は雀に注がれている。そうだ。主は私を見てくださっているのだ。私は歌う、この幸せを。私は歌う、この自由を。私は知っている。主が私に目を注いでおられることを。

     これは白人の作った福音唱歌で、ブラック・ゴスペルではありませんが、そう思えるほどにアメリカの黒人教会で愛唱されてきました。(マヘリア・ジャクソンの歌うこの歌には魂が震えます!)何が人を人として支え、この世で力をふるう者たちへの「恐れ」を乗り越えさせるのか。長い間、不当に差別され、理不尽な暴力に抑えつけられてきた人たちが、それでも、人間としての尊厳を奪われないで、人間らしく立ち続け、戦い続ける。暴力をふるい、人を苦しめ、自らの人間性を損なっている強い者たちに対して、大切なことを教えることができる。その力はどこから来るのか?揺るがない自己肯定なしにそれはできません。人にどれだけ傷つけられても、自分を愛することができる。そしてまた、他者の尊厳を大切にすることができる。その源となるのは、神様の眼が「この一羽」に注がれているという、神による自分の肯定であり、神による変わらない守りです。

     「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。雀より高い値がつく商品だから「まさっている」のではありません。イエス様は、尺度をひっくり返したのです。「力が強いほうが偉い。多く持っている者が幸いだ。人を支配できる者が祝福されている人」という人間観をひっくり返したのです。「貧しい人は幸いだ」、「小さな群れよ、恐れるな」とイエス様は言われました。小さな雀よりなお小さい自分を知る時、そこに注ぎ込まれる神様の愛を受ける者となります。雀より大きいから大丈夫だ、ではなく、雀よりも小さい自分が神様に愛され、守られ、用いられることを知る時、「まさっている」のです。