カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 再臨のキリストを待ち望む

    2020年11月29日
    イザヤ書2:1~5、マタイによる福音書24:36~44
    関 伸子牧師

     アドベント(待降節)第1主日の礼拝をささげています。アドベントは、ラテン語の「adventus(アドベントゥス)」から生まれた言葉で、「到来」という意味です。日本語では「待降節」とも呼ばれ、クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日からクリスマスを準備する期間に入ります。このアドベントから、新しい一年が始まるとされています。

     マタイ福音書第24章を読むと、エルサレムに入った主イエスは境内で教え、ユダヤ教の指導者たちと論争し、彼らの偽善を批判しています。神殿の崩壊を予告した後、イエスはオリーブ山に座り、ひそかに終末の印を尋ねてきた弟子たちにお答えになります。黙示的表象を用いて人の子の出現までの出来事を教えられ、いつ起こるかわからない終末の到来に備えるようにとお命じになります。

     終末が予想したほどには早く実現せず、それに対する期待と緊張が緩んでいく危険な状態にあったからこそ、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」(36節)と言われたのでしょう。主イエスは、終わりの日に至る出来事について詳しく説明しましたが、それが一体いつなのかについては、天使たちも子である自分自身も知らないと言う。それは、その日、その時に、イエスがその日、その時については何も知らない人間と同じ立場に立ち、多くの人を集め、救おうとするからであり、天使たちもそのイエスの働きを手伝うからです。

     37節と39節に「来臨(パルウシア)」という語が使われています。パルウシアは、新約聖書ではほとんど主イエスの「来臨」を指します。この語の根本的な意味は「その場にいる、居合わせる」という動詞から導き出され、本来「居ること、臨在」の意味を持ちます。しかし「来る、近づく」の意味を持ち得るように、「その場に居合わせることの始まりとしての到来」を意味します。元来はこの言葉に「再び戻って来る(再臨)」の意味合いはありません。そうであるのに、すでに来たイエスの再登場がパルウシアと呼ばれたのは、イエス再臨の待望は初代教会内で非常に強く、最初の到来を隅に押しやり忘れさせるほどだったからです。天に上げられたイエスがメシアの栄光に包まれイエスを主と告白する者を救いに来る。これは初代教会の強い希望でした。

     続いて37節から39節では「人の子の来臨」が始めと終わりに置かれ、囲い込みを作っています。その間ではノアの時に起こった洪水がさまざまに言い換えられます。「食べたり飲んだり、めとったりとついだり」と「何も気がつかなかった」は、洪水以前、人々は神の思いには無頓着のままごく平和に日々を送っていた。人々は人の子イエスが再び到来するまでは、自分たちの悪に気が付かないのです。しかし、霊においてイエスは、神に従わずノアの箱舟に乗らなかった人々のもとに行き、救いの教えを説いています(ペトロ一3:19~20)。イエスが再び到来する時、イエスは自分たちの悪に気が付かず、神の言葉に従わない人々のもとへも行き、救いの教えを説くでしょう。

     ノアの洪水では、善人と悪人が神の目によって区別されていますが、人の子が到来する時、畑で働く二人の男や臼を挽く二人の女の間にある善悪の区別は人間の目には分かりません。しかし、彼らの結末は「一人は連れていかれ、もう一人は残される」のです。しかし、ノアの洪水と人の子の来臨には違いもあります。ノアの洪水では「一人残らずさらう」(39節)のですけれども、人の子の来臨の時は「一人は取られ、一人は残る」。つまり全員がさらわれるわけではないのです。イエスを主と認めない者は滅ぼされるが、認める者は救われる。

     先ほどイザヤ書第2章の1節から5節をお読みしました。イザヤ書第2章の特徴は、諸国民が主の山を訪ねる目的にあります。シオンは諸国民から尊敬を受けるような威厳に満ちた高い山ではなく、およそ目立つことのない山です。しかし、シオンを諸国民の巡礼地としたのは、山の容姿ではなく、そこにご自身を現わす神の偉大さなのです。そこで人の目には目立たないシオンが「山々の頭」として高くそびえることになります。

     私たちの希望とは、「剣を打ち直して鋤と」することを実践し(イザヤ2:4)、「隣人を自分のように愛しなさい」と教え(ローマ13:9)、十字架の死に至るまで神と人とにすべてを献げて歩まれた主イエス・キリストによって与えられる希望であり、このお方を信じることから生まれる希望に他なりません。主はかつて来られ、今いまし、そしてやがてふたたびお出でになる。やがていつかどこかで私たちは主とお会いすることになるでしょう。そのような希望、「再臨のキリストを待ち望む」希望を心に抱きつつ、「その日、その時」に至るまで、私たちは、自分に与えられた持ち場で、主にある希望を語り、実践し、証しを立てる日々を過ごしてゆきたいと思います。お祈りします。