共に励まし合うために
2021年1月24日
詩編44:2~9、ローマ1:8~17
関 伸子牧師
「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)。これは、主イエスがガリラヤに退いて語られた、宣教の第一声でした。この御言葉において福音は広まり、神の子によって民が集められ、共同体(教会)が形成されます。
パウロは「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)と語りました。ガリラヤの小さくされた人々を救った福音であるからこそ、それはまたすべての人々を救うことのできる福音なのです。
パウロはローマの信徒への手紙第1章8節から15節にローマ訪問の願いを記します。一番先に書いたのは、感謝の言葉でした。パウロは、「わたしの神に感謝する」と言っています。われわれの神ではなくて、わたしの神です。ここには、神に対する深い心のこもった気持ちがあります。その感謝の内容は何か。それは、ローマ教会の信仰が、全世界に言い伝えられていることによるのです。少し大袈裟なようにも聞こえます。しかし、ローマのような町に、誰も特に伝道したこともないのに教会が存在していることは、感謝すべきことなのです。なぜならば、神の力によることなしには、どんな小さな教会もできることはないからです。それはまた、わたしたちの所属する小さな教会についても言えることなのです。それを、心から感謝したい。
次に、その感謝の理由が書いてあります。そのことは15章にもっと具体的に記されています。それは、「あなたがたの所を通ってイスパニアに行こうと思う」(15:28)ということです。ローマに行ったら、そこを中心にイスパニアまで行ってみたい、とパウロは思いました。
しかし、パウロは、ただ壮大な計画のためにだけ、ローマへ行こうというのではない。パウロは「あなたがた」に会いたいのである。好奇心をもった人たちがするように、ローマの町や人を見たいのではなく、「あなたがた」、すなわち、信仰者たち、キリスト者たちに会いたいのである。その理由はこうです。「あなた方に会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたにいくらかでも分け与えて、近づけたいからです。というよりも、あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです」(11、12節)。
信仰を語り合うというのは、いつも、お互いに得た霊の賜物を分け合うということです。パウロは、「祈るときにはいつも、神の御心によって、あなたがたのところに行く道が開かれるようにと願っています」と言っています。祈るたびに、ローマ教会のことを考えた。彼は、同じことを、テサロニケ教会宛ての手紙の中でも言っています。つまり、パウロは祈るたびに、あらゆる信者たちのことを思い起こしては、感謝したり、願いをしたりしていたのです。
信仰者の地上の生活は、旅人の生活です。それは、地上において救われた者が、救い主キリストのもとに帰って行く生活です。ここには永遠の都がないことを知っている者が、動くことのない、やがて来る都を望んで生活しているのです。その巡礼の旅をいっしょにしているのです。みんなで列をなして、励まし合って行くのです。不思議な旅です。しかし、望みと喜びの絶えない旅です。
そしてパウロは、「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」(16節)と、告白の響きを持つ宣言をします。それは、いかなる意味においても、キリストの十字架以外に、自分の中にも外にも確かさを求めないことである。つまり、自分が福音を告げ知らせる時に、それが救いをもたらす神の力になるということです。この「力」は、ギリシア語ではデュナミス、ダイナマイトの語源になる言葉です。福音が力なのです。
それは、「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」(17節)。「聖書教会共同訳」の翻訳に関わられた牧師を、中会の牧師会にお招きした時、この訳についてこう語られました。従来の訳は「ピスティスからピスティスへと」のピスティスを両方とも「信仰」と訳し、人間学的水平に訳していますが、聖書協会共同訳は、前のピスティスをイエスの「真実」、後者を人間の「信仰」と正しく理解することによって、前者は「神の義」の存在根拠としてのイエスの真実、後者はそれにより実現する「神の義」の受容器官としての人間の信仰となり、神学的垂直的な啓示経路となる、と。
そのような義は、徹頭徹尾、信仰を通して実現されるのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙には、「信仰は聞くことから」(3:2)と言い、ローマの信徒への手紙では、「信仰の従順に至らせる」(1:5)と言っていますが、それから考えれば、はじめから終わりまで、信仰によることである、ということでしょう。秘められた神のみこころ、信仰によってのみ知り得る神のみこころを、この福音の中に、信仰によって知ることができるさいわいに感謝します。お祈りいたします。