カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスの視線に従って

    2021年1月17日
    イザヤ書8:23b~9:3、マタイ4:12~22
    関 伸子牧師

     主イエスの宣教はガリラヤ地方で始まります。イスラエルの歴史においてガリラヤは辺境の地であり、軽んじられていた土地であったと言われています。その地で主イエスは、洗礼者ヨハネと同じように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣教を開始されます。12節から17節はマルコによる福音書第1章14から15節と並行しています。これら比較すると、はっきりとした違いがあるのが分かります。マルコが書いた14節から15節の1行目と2~3行目の間にマタイは、13節から16節を挿入したことになります。

     これを挿入したマタイの意図は何か。洗礼者ヨハネが捕らえられたとき、ガリラヤに入って行ったイエスの姿に預言者イザヤの言葉の成就を見たことにあります。イザヤ書第8章23節後半に上げられた北イスラエル領の地域は、紀元前732年にアッシリアに奪われました。このような歴史状況の中で、イザヤは第8章23節から第9章6節に記されている言葉を語りました。ゼブルンとナフタリは、もともとユダヤ部族の名前でしたが、この部族が住んだ北ガリラヤ全体を指す地名にもなっていました。「海沿い」の湖はガリラヤ湖のことです。

     マタイはマルコ福音書に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」とあるのを見たとき、「ガリラヤ」という地名をきっかけにして、イザヤが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と語っていたことを思い起こし、イエスはまさにこの「大きな光」であり、私たちの上に射し込んだ「光」だと気づかされたのです。そこで、イエスとイザヤの言葉との関連をいっそう密接にするために、マルコにはなかった13節を書き加えたと思われます。

    イスラエルはかつてギデオンによって略奪した民ミディアンを完全に追放することに成功しましたが、その「ミディアンの日」のような勝利が来る、とイザヤは預言しています。「ミディアンの日」をもたらすのは、神が民に与える「一人のみどり子・・・・・・一人の男の子」であって、人々の前に今、君臨するアハズ王でもヒゼキヤ王でもありません。王国を固くするとダビデに約束した神に信頼するとき、絶えることのない平和を享受することができます。なぜなら、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(6節)からです。

     聖書の神は、ご自分の計画を進めるのに不思議な方法を取られます。中心ではなく、まず端を選ばれるのです。世界の中心であるお方が、世界の端におられる。それによって端が中心となるという逆説です。

     その時から、主イエスは、「悔い改めよ。(なぜなら)天の国は近づいた」(17節)と告げる主イエスが二組の兄弟に歩み寄ります。イエスは「歩いて(進んで)ゆき」、二人の兄弟を「ご覧になって」、彼らに言葉をかけると→彼らは網や父親を「残して」、イエスに「従った」。イエスは、家庭と仕事という領域にいた彼らに出会い、それとは全く異なる世界を示される。つまり、「人間をとる漁師」にしようとするのです。どのような仕事なのかもよくわからないままに、彼らは即座に返事をします。彼らはイエスに同行し、イエスと人々の仲立ちをすることになります。

     天の国が近づいた時に、わたしたちがしなければならないことは悔い改めです。わたしたちは変わらなくてはなりません。方向転換しなくてはなりません。どこに向かって方向を変えるのでしょう。天国の到来において、今、近づいてこられる神に向かって、わたしたちの現実の中に来られる、生ける神に向かって、です。「悔い改め」とは、この中心に目が開かれることに他ありません。神はあなたの中心におられる。そのあなたの中心におられるお方に帰するのです。「インマヌエル」、主が我らと共におられます。この神の恵みに支えられるとき、悔い改めは、自らの過去と現実を、勇気をもって見直す喜びの行為となります。悔い改めとは、洗礼を受ける時に、一度だけすればよいものではなく、生涯をかけて絶えずするものです。なぜなら、私たちの心は放っておくと、すぐに神さまから離れてしまうからです。

     召命は、主イエスが彼らを「御覧になって、呼ばれた」ことによって起こります。普通の人間にすべてを捨てるという行為を可能にさせたのは、まず、イエスさまの方から呼びかけていることであります。これが人の生き方を根本から変えていくのです。イエスの弟子となるためには、「御覧になって、呼ばれる」イエスの視線に自分の目を合わせることが必要なのです。

     召命とは「呼ばれる」ことです。家庭を捨てるという呼ばれ方もあれば、独身を捨てるという呼ばれ方もあるでしょう。しかし、いずれの場合も「呼ばれた」という出来事をいつも心に暖め続けることが必要です。呼んでくださる方は光そのものであり、その光の中に「天の国」が実現しているのです。これは命令であると同時に、人を新しい存在、「人間をとる漁師」とする約束です。わたしたちをいつも見つめ、呼んでくださる、イエスさまの視線に従って、天の国を目指して歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。