カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の望みに生きる

    2021年1月10日
    イザヤ書42:1~9、マタイによる福音書13:13~17
    関 伸子牧師

     三つの共観福音書が主イエスの洗礼について語っています。マタイは、「その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)と、主イエスがヨハネのところに来られたことを強調します。神の子イエスは、まずマリアの胎に下り、家畜小屋に下り、エジプトに下り、ガリラヤに下り、そして今や荒野に下り、洗礼者ヨハネの下に洗礼を授けてもらいに来られました。マルコに比べて、マタイはイエスの登場を洗礼者ヨハネの活動とより強く結び合わせています。

     洗礼者ヨハネは「天の国は近づいた」と声を上げ、人々に回心を求めました。ヨハネのもとに集まってくる群衆に交じって、イエスもガリラヤからやって来ます。洗礼者ヨハネは、洗礼を授ける前にイエスの名前を聞いて(マタイ1:21~23)彼だと分かったのだろう。ちなみに、イエスがマリアの胎内にいて、洗礼者ヨハネがエリサベトの胎内にいる時、マリアのあいさつをエリサベトが聞くと、その胎内のヨハネは踊った(ルカ1:41)。洗礼者ヨハネは今、実際にイエスに出会い、跳び上がりたいばかりの喜びに満たされているだろう。ヨハネは洗礼を受けようとするイエスを思いとどまらせようとします。イエスこそ彼の後から来て、聖霊と火による洗礼を授ける方だと知っていたからです。ヨハネは「その履物をお脱がせする値打ちもない」(11節)と言いましたが、今度は、ヨハネの「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに・・・・・・」(14節)と、イエスに洗礼を授けることを謙虚に断ります。そして、私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言う。
     
     主イエスはヨハネに答えて「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは我々にふさわしいことです」(15節)と言われました。このイエスの言葉を直訳すると、「いま、(洗礼を)許しなさい。このように、すべての義を果たすのは我々にふさわしい」となります。「義」は神の義を表わすためにも、人間の義を表わすためにも用いられます。「イエスがヨハネのもとにやってきたのは、「彼から洗礼を受けるため」であり、人々も同じ理由からそこに集まります。したがって、イエスは民の一人としてヨハネの前に現れたと考えられます。

     先ほどイザヤ書の第42章1節から9節をお読みしました。「見よ、私が支える僕 私の心が喜びとする、私の選んだ者を」(1節)。「正義」を確立するために、神はそのしもべを立てる。この1節から4節の「僕」については諸説ありますが、イスラエルの民だと思われます。3節の「傷ついた葦・・・・・・暗くなってゆく灯心」は、真の神を知らない諸国民を指しており、彼らに「裁き」をもたらすことが、僕であるイスラエルの使命となります。

     しかし、『新共同訳』が「裁き」と訳したミシュパートには、裁き手が持つべき属性としての「正義・公平さ」とか、裁き手が交付する「決定」という意味もあり、今年からわたしたちが用いている『聖書協会共同訳』はこの語を「公正」と訳しました。しかも、4節に「地に公正を確立する島々は彼の教えを待ち望む」とあり、ミシュパート(裁き)はトーラー(教え)の並行語とされていますから、ここでのミシュパートは、地上に実現されるべき秩序のことであり、それをもたらそうとする神の救いの意志のことだと解することができます。

     主イエスは、「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)と初志を貫かれます。「正しいこと」とは、私たちの目から見た正しさであるよりも、神様の正しさです。それを「すべて正しく行う」とは、神様の意志のもとに自分を置くということです。ヨハネにとっては、それは「悔い改め」でしたが、主イエスにとってはもっと大きなことでした。神様は、これから主イエスを通して、特別なことをなさろうとしておられるのです。主イエスの受洗は、その最初のことでした。

     預言者の時代が終わりを告げる「今」は、ヨハネから回心の洗礼を受けることこそ、神が人に望むことなのです。15節を境にして時代は変わります。ここで旧約の預言者の時代は終わりを告げ、神の「愛する子」の時代が始まろうとしています。

     「イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に下って来るのをご覧になった」(16節)。天は地上から開くことができません。天からのみ開くことができます。今、天から来られた方が、人として私たちと同じところに立たれたことによって、天が開け、天と地が結ばれたのです。ここで父と子と聖霊という三位一体が完成します。キリスト者は、イエス・キリストを「まことの神にして、まことの人である」と信じます。まことの神であるお方が身を低くして、私たちと同じまことの人となってくださったのです。天からの声は、それを高らかに宣言しています。主が洗礼を受けられたように、私たちも主にならって洗礼を受ける。そして主と同じように、「これはわたしの愛する子」と呼びかけてくださる神の御声を聞くのです。主とひとつとされて「神の御心に適う者」として歩み通すことができるように、常に祈りもとめたいと思います。お祈りをいたします。