カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスにしたがう

    2021年3月7日
    エレミヤ書20:7~9、マタイ16:21~28
    関 伸子牧師

     「この時から、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。主イエスはペトロが信仰告白をしたのを機会に、ご自分の受難を弟子たちに予告される。

     主イエスを拒絶する動きは、ユダヤ人指導者層から始まり、一般の人々、異邦人を巻き込んで広がってゆきます。ユダヤ人が期待していたメシアとは、むなしく殺される無力な敗北者ではありませんでした。今日の箇所の直前で「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白していたペトロも、ユダヤ人の常識や「人間の思い」から自由ではありませんでした。ペトロがイエスを脇に連れていき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめると、イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と叱りつけます。

     ここで「とんでもないことです」と訳された文章を直訳すると、「主よ、慈しみがあなたに」となる。この句のあとに「そんなことがあってはなりません」と続くことから分かるように、文脈によっては「おかしなことを発言するあなたには神の慈しみが必要だ」といったニュアンスになります。ペトロが思い浮かべるメシアは十字架に死ぬはずがない力強い人物ですから、メシア自身の口から受難予告を聞いたとき、神の恵みが必要なほどにおかしな発言だと考えました。ペトロは主イエスのことを励まそうとしたのでしょう。

     ペトロは、天の父の思いを受け入れて「あなたはメシア」と発言したときには祝福されましたが、人間の思いにとらわれたときには「サタン、引き下がれ」と叱られます。人間的な栄光を求めるとき、その人はサタンの誘惑の虜になっています。ここで「邪魔をする者」と訳された語は「わな」を意味し、そこから「行く手をはばむもの=邪魔をするもの」という意味が生じます。ペトロはイエスの行く手(=十字架への道)をはばむ人物になっています。

     「自分を捨て、十字架を背負って、従いなさい」(24節)という命令は、弟子のとるべき態度を明らかにしています。「捨てる」と訳された動詞は、もともとは「否定する」を意味します。これは、鶏が鳴く前にイエスを拒んだペトロにも使われている(26:34、75「知らないと言う」)。ペトロはイエスを「知らないと言った」。自分の命を助けようとした。しかし、弟子であれば、イエスを「知らないと言う」者ではなく、自分(人間の思い)を「知らないと言い」、十字架を背負う者です。主イエスは、十字架を背負い、ゴルゴダの丘に登るイエスは富や名誉をはぎ取られ、裸にされ、死へと向かわれた。キリストと共に葬られた者は、キリストと共によみがえって生きる。自分を捨てたら、自分の主体性がなくなってしまうと心配する人がいる。しかし、心配はいらない。自己が死ねば、代わりにキリストが私たちの中で生きてくださる。

     先ほどお読みした第20章7節から9節(18節)は、エレミヤが預言者としての苦難や不安を率直に神に告白する箇所です。ここでエレミヤは「主よ、あなたがわたしを惑わしたので」と述べていますが、このような言葉を用いたのは、それだけ苦悩が深かったからです。その苦悩の原因を述べるのは7節後半から8節「私は一日中 笑い物となり 皆が私をあざけります・・・・・・」。エレミヤは「一日中」笑い者となると知っても、民の不法行為を戒め、神の裁きによる荒廃を告げざるをえません。笑い者にされても、神の言葉を語らざるをえないところにエレミヤの苦悩の根源があります。エレミヤは自分の召命に疑問を抱き始めたのではありませんが、民と神の間にあって、耐え難い緊張を生きざるをえないのです。神に近づけば、民からあざけりを受け、逆に民にすり寄れば、神から叱られます。両者を仲介する預言者は、神に全面降伏し、この緊張を生きるより他に道がないのです。

     福音の実践は私たちの行動の中で示されます。主に従う道において、口を閉ざそうとしたり(エレミヤ20:9)ペトロのように困難を避けようとしたりする誘惑があるでしょう。しかし、聖霊は示してくださる。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いているのである」(27節)。「サタン、引き下がれ」という最大級の叱責を浴びせられたペトロがその生涯の最後まで、主イエスから離れ去ることなく生きたことも事実である。

     信仰告白を生き生きとし続けようとする信仰者は、数かぎりなく経験する「サタンよ、引き下がれ」という声の前に、はっと我に返って、自分の十字架の重みを意識する。信じて、失敗して、叱責されて、しかし、主の限りない慈しみのもとで立ち直って、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従う弟子としての道を歩み続けたいと思います。お祈りをいたします。