カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神への道を知る

    2021年5月2日
    詩編98:1~9、ヨハネ14:1~14
    関 伸子牧師

     先ほどお読みしましたヨハネ福音書第14章1節と11節に「信じなさい」と最初と最後に置かれたこの言葉が全体の枠を構成しています。イエスは弟子たちに、自分とその言葉とを信じることを求めます。「私が行く所にあなたがたは来ることができない」(13:33,36)と言われた弟子たちの心は、とても動揺しています。主イエスは彼らに三つのことを語られます。まず、第一に、「心を騒がせるな。信じなさい」と呼びかけます。「騒がせる」の原語(タラッソー)は水が掻き立てられる動きを意味しますけれども、ヨハネ福音書では特にイエスの内面の心の動きを現わしている。それがこの1節と27節ではともに弟子たちへの励ましの命令として語られている。

     主イエスは「心を騒がせるな」につづけて「私を信じなさい」と教える。この世と闘いその手ごわさを知り抜いたイエスが「信じないのか」(10節)ととがめ、「信じなさい」(11節)と戒める。それは、信仰の次元の話だからです。弟子たちは安全な場所にいるのではない。この世の危険にさらされている。危険を克服し、この世に打ち勝つにはどうすべきか。それに答えて主は、「私を信じなさい」と勧める。イエスに結びつくなら、この世に負けはしない。

     そして、主イエスは「あなたがたのために場所を用意しに(父のもとへ)行く」(2,3節)と言われる。私たちはこの地上に生きる限り、多かれ少なかれ自分たちの「住む所」のことを心配しなければならない。多くの人々は家賃やローンを払い続けながら、やっと小さな住みかを確保する。そして晩年になってもなお、どこに住むかということは深刻な問題として私たちにのしかかる。

     しかし天国には住むべき場所がたくさんある。そしてそれは私たちの最終的な安住の家である。そこで私たちは主に守られて、深い平安と慰めを得、孤独から解放されてすべての人々と共に永遠の喜びのうちに生きるものとなるだろう。たとえ私たちがこの世に安住の家を見いだせないとしても、そのような住まいが用意されているとは、なんと喜ばしいことだろうか。私たちはどうしたらそこへ行けるのだろうか。
     
    第二に主イエスは「道であり、真理であり、命」であると語ります(6節)。トマスが、「分かりません」と言った時、イエスが更に言われた言葉である。世の中には「入学試験に受かる方法」とか、「楽にお金を手に入れる方法」といった方法論がたくさんあります。しかし、その方法は、必ずしもうまくいきません。しかし今、主イエスは、「私が方法だ、道だ」と言われます。しかも、「真理であり命である」そのお方が道なのです。

     イエスは神が示される「真理と命」に至るための「道」であり、救いへの「道」です。イエスは父へと至る唯一の道ですから、「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」ことになります。イエスは「私たちに御父をお示しください」と願うフィリポに「私を見た者は、父を見たのだ」と答えます。イエスは神を啓示するお方なのです。フィリポはそれを理解しなかった。主イエスは、イエスと御父が根本的に一致していることをもう一度強調しながら答える。

     弟子たちが信じるべき第三のことは、「私が父の内におり、父が私の内におられる」ということです(10,11節)。サマリアの女に「生きた水」を与え(4章)、生まれつき目の見えない人に「光」を与え(9章)、葬られたラザロに「命」を与えた(11章)主イエスの不思議な業は、すべてイエスの内にあってイエスと共に働く神の力である。

     「道」の終わりに神が立つ。私たちの住まいが用意され、生きる喜びを享受できる時が来る。しかし、その喜びはゴールに至って初めて味わうのではない。主イエスを知った今、その前触れを見ているのである。

     主イエスの言葉を信じる者、すなわち、イエスが父のもとに行ってともに住む場所を弟子のために準備すること、イエスが真理と命を与える道であり、同時に真理と命そのものであること、そして、イエスと神がいつも一体であるということを信じる者は、イエスの業をともに行う者になる。しかもイエスは、自分の行う業よりも「もっと大きな業を行うようになる」(12節)と励まします。

     こうして、常に私たちと共におられる主イエスを礼拝し、主日から主日へと主イエスの道をたどって、この世を歩む信仰の道は、途中で起きるどんなマイナスに見えることも主イエスの愛そのものなのである。こうして、私たちは神の系統を引く者となる(ペトロ一2:9)。それゆえ、私たちは主に感謝し、心を騒がせることなく、主イエスの平安の内を歩むことができるのです。感謝します。