カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスの祈り

    2021年5月9日
    詩編95:1~11、マタイ6:5~15
    関 伸子牧師

     マタイによる福音書第6章5 節から15節を読むと、私たちの行為が二種類に分けられることに気づかされます。一つは「人から見られている」行為であり、もう一つは「人の目から隠されている」行為である。

     主イエスが弟子たちに教えてくださった主の祈りは神に向かう祈りですけれども、それと同時に私たちに語りかける神の言葉でもあります。「私は思っていた。祈ることは語ることだと。しかし私は知った。祈りことは聞くことだということを」(S.キルケゴール)。主の祈りを祈りつつ神の語りかける言葉に聞きたい。

     パウロは「私たちはどう祈ったらよいかわからないが」(ローマ8:26)と言っている。この時のパウロは信仰生活の初心者ではない。教会の優れた指導者であり、この手紙のはじめにも、「祈るたびごとに」(1:10)と、絶えず祈る生活をしていることを示しているのである。それでも、なお、どう祈ってよいかわからない、と言わなければならないのである。主の祈りが、祈ることを教えるためのものであったとしても不思議はないはずである。

     ルカは、主イエスがこの祈りを教えたあとで、熱心に求めなければならないことを教えたとして、真夜中に友人のところにパンをもらいにゆく話を書く。そして、その終わりに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(11:9)と言って、最後は「天の父はなおさら、求めて来るものに聖霊を下さらないことがあろうか」(11:13)と記す。これは、祈りにおいて、求むべきものは、最終的には、聖霊であることを示す。そして、そのことは、パウロが、ローマの信徒への手紙において語っていることと符合する。「なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからである」(ローマ8:26)と言って、私たちの祈りは、霊のとりなしを信じるからこそ、成立することを確言する。ルカが、祈りが聖霊を求むべきものであることと言っていること、パウロが、霊のとりなしを、祈りの根拠としていることなどと、相応じるものといいうべきである。主の祈りにおける祈りの意義が、ここにも現れている。

     さらに、マタイの文脈を見ると、マタイは、祈りは、言葉数が多ければ、聞かれるというものではない、ということのほかに、「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」(12節)に対する注をもって、この祈りの説明としている。

     12節を詳しく見てみよう。通常、人は働けば、それに対する報酬を「恵み」としてではなく、当然「支払われるべきもの」として受け取る(ローマ4:4)。しかし、人は罪を働いた場合には、神または人に対して「負い目」を作ることになり、この負い目を何等かの形で返す義務が生じる。しかし、人はこの負い目を返すことができないので、神は十字架上で流されたイエス・キリストの尊い血に基づいて、罪の許しを「恵み」として与える。ある主の祈りの本のなかに、ドイツの家庭でよく祈られる食卓の祈りが紹介されていた。「主よ、私どもになくてはならないものがあります。それをあなたの憐れみによって与えてください。日ごとのパンと罪のゆるしを!」良い祈りである。「私たちの負い目をお赦しください」という祈りは、神の恵みをくださいという祈りであり、この神の恵みは、人間の働きや努力と関係のない神からの一方的な賜物である。つまり、罪の赦しの力は、神のみに由来する神の力である。とすると、もし人が自分に「負い目のある人」、つまり、自分に罪を働いた人を赦すことができたのなら、それは神の恵みが与えられていたためである。したがって、この節の祈りは、自分が他者の罪を許すことが出来た時に、神が与えてくれた恵みに感謝すると同時に、その恵みを今後も神に願う祈りであり、このような感謝に基づく願いは、自分自身の子たちの真の必要を知り、その必要が満たされる時に自分のことのように喜ぶ真の父である神にとっても喜びなのである。

     9~10節では、父の名前、父の王国、父の思いに言及され、11節では、人々に与えられる子なる神イエス・キリストの体が永遠の糧であると示されており、12節で引き続き、キリストの十字架上での贖いに基づいて許される人々の負い目が取り上げられ、13節では、「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」と、聖霊によって人々が試みに導き入れられずに、悪から助けられる恵みが述べられている。

     14節から15節は、前節と同じことを逆の側面から明示している。神への信頼から、この方に呼びかけ、訴え、問いかける。私たちがこういうお方に祈ることができることはなんと幸いなことでしょう。主の祈りを日々の生活のなかで何回も祈り、私たちは祈りによって神と共に生きる者でありたい。お祈りをいたします。