カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 心を開いて

    2021年5月16日
    エレミヤ書10:1~10a、ルカ24:44~53         
    関 伸子牧師

     昇天日と聖霊降臨日の間に挟まれたこの主日は、ある意味では特殊な主日である。キリストは天に昇られて地上にはおらず、また、聖霊も地上に降っていない。弟子たちはとても不安で心細い状況に置かれている。

     主イエスが弟子たちに「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉はこうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ず実現する」(ルカ24:44)と語られた。このことは、エマオの途上での出来事(27節)を繰り返しておられることと考えられる。しかし、ここでは詩編が加わり、全く同じ繰り返しではなく、さらに詳しく語りかけられたと受け止めることもできるのではないか。

     繰り返し語られたということでは、「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉」とあるとおり、すでに話されたことでもある。しかし、弟子たちはそのときにはまだ、理解して悟ることができなかった。「12人は、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(18:34)。言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのは、神の時がまだ来ていなかったということではないか。弟子たちを愛し抜かれた主イエスご自身が復活され、彼らを生かす復活の命と共に働きかけ、私たちの「心の目を開いて」御言葉を悟らせてくださる。そのような神の愛とその働きに、聖霊の力ある働きが伴っているのであり、私たちの存在の源を見出して生きることの喜びがある。

     「喜び」はルカによる福音書の初め(1:19)から響いている言葉であり、「高い所から」(24:49)くる「喜び」が福音全体を貫いている。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)というその存在の深みからほとばしるように、神を喜びたたえる告白からはじまるマリアの賛歌であるが、そこにはまた、激し言葉もあり、哀しみと切り離されない形で喜びが言いあらわされている。そのような、人が生きる現実に深く根差しており、主なる神でしか与えることができない喜びが、ルカ福音書全体を通して流れ続けている。エルサレムから始められた、そのような喜びを継続して響かせ続けている。

     主イエスは天に上げられる前、弟子たちに使命を与え「あなたがたは証人となる」(48節)と告げています。弟子が証しすべき事柄は、キリストについて聖書に書かれている三つのこと、すなわち、キリストが「苦しみを受け」、「三日目に復活し」、悔い改めが「宣べ伝えられる」ということです。

     しかし、48節が「これらのことの証人となる」と述べる「これらのこと」には、受難と復活だけでなく、「罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる」ということも含まれているはずです。イエスを死者の中から起き上がらせたことによって人の罪をすっかり赦したことを神が告げています。人の悔い改めよりも前に神がまず人の罪を吹き払い、神へと立ち帰るように呼びかけているのです。しかも、弟子たちは単独で証しするのではありません。イエスが送る「父が約束されたもの・・・・・・高い所からの力」、つまり聖霊が共に働いています。それを身に帯びるとき、人は変えられ、神の力に動かされることになります。

     主イエスが弟子たちを離れた時の様子を、使徒言行録では次のように記しています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。・・・・・・」(1:9~10)。この使徒言行録の記事に基づいて、イエスの「昇天」ということが言われるのである。

     ルカによる福音書の最後の言葉は、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52~53節)。主イエスが祝福されたことも、神殿における弟子たちの集団の「ほめたたえ」も、いずれも原文では「エウロゲオー」、直訳すれば、「よく言う、よいことを言う」である。辞書を調べると、「ほめる、うまく話す」というのが一般の日常用語として用いられたが、それが70人訳で用いられることによって、祝福する、という神的な意味を持つようになったとされている。

     イエスが「手を挙げ」たのは、祝福のためですが、これは祈る姿勢にもなり得ます。イエスの手が天と地を合わせる結び目となります。イエスが弟子たちを祝福しながら、天へと挙げられてゆくのを目撃した弟子たちは、その姿を「伏し拝み」、「大喜びで」エルサレムに帰り、常に神殿の境内にあって神を賛美した。神殿においてなすべきことは礼拝であり、礼拝は神に対する祝福でなければならないことがここで示されている。そして、この祝福は神から与えられた十字架上の死と復活を、人々に対する祝福に変えた主イエスの祝福があって初めて可能になるのです。祈ります。