カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 家族をつなぐもの

    2021年8月15日
    創世記24:62~67、マタイ12:46~50
    関 伸子牧師

     主イエスが群衆に話しをしておられる時、イエスの母マリアと兄弟たちが話したいことがあって、イエスのもとにやって来たて外に立っていました。彼らは外から人をやって主イエスを呼びつけようとしました。彼らの用件はここには明示されていませんけれども、並行記事のマルコ福音書第3章21節によれば、人々がイエスは気が変になっていると言っているので、心配して、イエスを連れ戻しに来たのでした。パリサイ派の人々がイエスを悪霊の仲間であると中傷しているのが、うわさとなって人々の間に広まっていたので、家族の者たちは放置しておくことができなかったのであろう。ここに出てくるマリアはおとめマリアのイメージではありません。どこにでもいるようなお母さんのイメージです。心配そうな顔をして外に立っているマリアの顔を想像することができます。

     この箇所はマルコ、ルカ福音書とも内容的に共通した箇所である。ただし、著者の位置づけるところは異なる。マタイは弟子たち、マルコは「周りに座っている人々」、ルカは一般の人々を対象にしてこの箇所を編集している。また有力な写本群には、47節が欠落している。このこととマルコの言及「身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。『気が変になっている』と思ったからである」(3:21)を、マタイとルカが削除していることは、それぞれの教会の状況を反映されている結果なのだろう。
     
     イエスの母と兄弟は「息子、兄弟がとんでもないことをしている。何とかやめさせなければ」と思ったのでしょう。身内で親しいだけに、かえって主イエスが誰であるかがわからなかったとも言えます。近い存在であることがかえって妨げになるのです。主イエスも「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ13:57)と言われました。

     私たちと主イエスの関係も似たところがあるかもしれません。クリスチャンホームに育った者にとって、主イエスは身内のような親しさがあります。主イエスのなさったわざ、話は子どもの頃から聞き知っています。それはある面では恵みですけれども、逆に「よく知っている」という思いがかえって本当の主イエスとの出会いを妨げることもあるのではないか。私たちはどこかで、直接の親しさを超えたところで、イエス・キリストと出会い直さなければなりません。クリスチャンホームに育った人でも、主体的にイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、神のみこころを行う決意を経て、初めて本当のキリスト者となるのです。

     ところが、主イエスは、家族の親しい愛をよそに、神の国における真の家族がどのようなものであるかを語られた。主イエスは「私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か」(48節)と問い、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(49b、50節)と言われました。主イエスは、このように言われたとき、神を中心とした新しい人間関係を考えておられるのである。それは神を父として、血のつながりを超えた神の家族、主にある姉妹兄弟を指し示す。

     ここで主イエスは肉親の家族を否定されたということではないと思います。イエスは十字架上で、マリアに弟子のひとりを指して、「これはあなたの子です」と言われ、母マリアをさして、「これは、あなたの母です」と言われました(ヨハネ19:26~27)。そして母マリアの将来をヨハネに託しています。しかしこの時、依然としてイエスを単なる家族と考える肉親に対して、メシアとして公の立場に立っているイエスは、私的な肉親としての感情を抑制したのである。イエスは、「誰でも天にいますわたしの父の御心を行う人は、私の兄弟・姉妹・母なのです」と言われました。そこには、天にいます父なる神を中心にして生き、その御意志を行う信仰があります。つまり、私たちは「行う」ことによって兄弟に「なる」のです。血を中心とした行動の誤りはそこにひそむ罪に対して無感覚になることです。愛は自然ではなく、むしろ「愛は神から出たものです」(ヨハネ一4:7)。神は愛であるゆえに、この父の御心を中心に生き、その愛にこたえてゆく行為によって、初めて兄弟姉妹の関係ができるのです。この愛は、「嫌い」「憎い」といった、人間の罪に出会うときに試されます。その時、愛は流れにそってゆく自然ではなく、流れに逆らい吹雪に抗してゆく戦いにほかありません。なぜなら人間は自然のままでは、みな自己中心にすぎないからです。

     聖書が人の手によって書かれたものである以上、時代的、社会的な制約から完全に自由ではありません。今日の聖書箇所を肯定的に語るならば「仕える」という言葉を中心に据えることができます。人の子は「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20:28)来たと言い、自ら弟子の足を洗って「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」(ヨハネ13:14)と言われた主イエスの姿こそが家族において私たちが立ち帰るべき原点である。お祈りいたします。