カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 一歩を踏み出す力

    2021年8月8日
    詩編57:2~12、マタイ10:16~25
    関 伸子牧師

     私たちは8月を特に平和を覚える時として過ごしています。この日(8月8日)をはさむ8月6日は広島、8月9日は長崎の原爆記念日です。私たちは現在、コロナ禍のなかにはありますけれども、それでも戦争のない平和な日々を過ごしています。しかし、一瞬にして日常が崩壊することも歴史を通して私たちは知っています。

     主の平和を告げ知らせる者の道も絶えず困難が待ち受けています。主イエスは弟子たちの前には多くの危険や困難があることを予知しておられました。弟子たちはイスラエルの町々で拒絶されるばかりか暴力に遭う。暴力の荒れ狂う中で、弟子たちは羊のように無防備であって、迫害者に復讐しようとは考えない。それは、狼の群れに投げ込まれた羊のようだと言っています。

     狼は狂暴な野獣であり、おとなしい羊はその前ではひとたまりもありません。この穏和は羊のイメージがさらに鳩のそれに重ねられる。鳩はギリシア人にとってもユダヤ人にとっても、無防備、純粋、誠実の模範であった。それに対して、蛇は創世記第3章1節ですでに狡猾さの象徴である。無防備な羊が、乱暴な狼の中で生きていくために必要なこととは賢さと純真さである。弟子たちは蛇のように賢明でなければならなかった。蛇は天地創造直後の世界で最も賢い生き物であり、最終的には人の注意を神へ向けさせる役割を果たした。また、この賢さは、岩の上に家を建てた人のように逆境に備える注意深さをも示す。それと同時に鳩の持っているような純粋さが必要なのである。

     主イエスは、また、予想できる困難の例をあげている。それは弟子たちが人々を惑わし、社会を混乱させる者として捕らえられ、裁判にかけられるということであった。当時のユダヤ人社会では、エルサレムにサンヘドリンと呼ぶ「議会」があると同時に、各会堂にも「議会」があり、そこで有罪の判決を受けると、すぐに「鞭打ち」(17節)の刑が行われた。さらに、彼らはローマの地方総督である長官や、ローマ皇帝によって任命された国主であったヘロデ家の王たちの前に連れて行かれて、尋問されることも予想された(18節)。

     キリスト者とキリスト者ではないユダヤ人との間の緊張は、時には相当激しいものとなったに違いない。従って家族の者の間で鋭い分裂が起こったときに、人々が21節に記す「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子は親に反抗して死なせるだろう」という主イエスのことば、また、34、35節に暗示されているミカ書第7章6節のような預言を思い出したとしてもおかしくはない。

     しかし、そのような困難のただ中で耐えられる約束を記す。神は弟子たちに霊を送る。イエスが洗礼を受けた時、神の霊が天から下って来てイエスが力ある働きを展開していったように、使徒たちは迫害下にある時、父の霊が彼らの内から力強く語り出す。主イエスの第2番目の確信に満ちた言葉は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22節)というのである。ここで「救われる」と訳されているギリシア語は「解放される」とも訳すことができる。とすればおそらくここで言われていることは、彼らを迫害する者たちの憎しみに対して、自分たちがされた通りに応報し返すことを拒否することによって、主イエスに忠実であり続ける者が、まさに霊において無傷のまま解放されるであろうということである。

     しかし、主イエスは弟子たちに「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい」(23節)と教える。なぜなら、弟子たちが派遣された最大の目的は殉教することではなく、福音を一人でも多くの人に宣べ伝えることだからである。イスラエルの家を復興させることは僕である使徒たちだけでは不可能であり、主人である人の子イエスが到来し、僕の仕事を完成させる。

     人々はイエスを「ベルゼブル(悪霊のかしら)」と呼んだ。弟子たちも何と呼ばれるか分かったものではない。しかし、私たちは決して人を恐れてはならない。私たちは主イエス・キリストご自身が私たちに先立って最も大きな苦しみを受けられたこと、十字架にかかれて死なれたこと、そしてそれは私たちのためであったことを思い起こす。この励ましと慰めに支えられて、私たちも蛇のように賢く、鳩のように素直に、主イエス・キリストの弟子としての生涯を全うしたいと思います。

     どのような状況にあっても、主は決して見捨てない。詩編第57編8節「神よ、私の心は確かです。私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう」と詩編作者は、神への信頼から生まれる心の平安を謳った。まだ静寂が支配する夜明け前、一夜の祈りのうちに心の平安を与えられた詠み手は讃美の声をあげる。詠み手の心は確かになる。その約束だけが困難に立ち向かう唯一の武器となる。だからこそ、心を確かに神に向かい続けることが大切なのである。この不安定な時代にあっても、すべてを神に委ねて、神の言葉に聞き続けていきましょう。祈ります。