カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスの名によって

    2021年8月1日
    エレミヤ20:7~13、使徒言行録20:17~35
    関 伸子牧師

     パウロはエルサレムに向かおうとしている。そこで彼は捕らえられることになる。船がミルトスに寄港したとき、パウロはエフェソの教会の長老たちを呼び、別れの言葉を告げる。

     パウロは主に仕えてきた。その際、パウロは悲しさや悔しさで涙を流したこともあれば、自分の命をねらうユダヤ人たちの陰謀にさいなまれたこともあった。そうした経験をパウロは、自分に課せられた試練と受け止めた。それは人々が回心して主イエス・キリストに従うことを伝えるためであった。回心とはパウロの言葉によると、闇から光に、サタンから神に心を完全に入れ換えることであり、イエスに対する信仰とは、イエスが救い主キリストであると信じることである。パウロはこのような福音の核心をすべての人々に確かに伝えた。パウロは自分の身の上に起こることすべてを予測することができないが、そこに投獄と苦難が待ち受けていることをはっきり自覚している。

     私たちが生きていくうえで、どうしても避けては通れない苦難がある。通らなければ目指すところへ行き着けない道がある。聖書はそれを回避する道を示すのではないのである。むしろ喜びをもって、正面から、それを受け止めるべきだと教える。

     エレミヤは、預言者という職務のゆえに、郷里アナトトの人々の激しい恨みを買い、死の危険にさらされ、また全く孤独な状態に置かれた。それだけでなく、エレミヤは職務のゆえに神と争い、自分の生を呪うにいたった。エレミヤは、神から与えられた任務の遂行に疲れて泣き言を言う。「私は耐えられません」(エレミヤ20:9)と。新共同訳はここを「わたしの負けです」と訳していた。思い切った訳は不思議に心に響く。私たちもすっかり疲れて、力を失い、つぶやくことがある。「参った」と。「もう闘えない」と。しかし実は、そのように神に告白できるところにすでに大きな救いがあるのではないか。「私は耐えられません」「わたしの負けです」とは、白旗を掲げて神に降参することでもあり、自分の力の限界を認めてすべてを神に委ね切ることでもある。

     パウロは「霊に促されて」苦難の旅へと歩み出していく。自分がエルサレムに行くのは、霊に迫られ、からめられて行くのだと、自分にもそうしたくない思いはある。しかし聖霊によってである。黒人解放運動をしたマルチン・ルーサー・キング牧師の著書『汝の敵を愛せよ』にこのようなことが書かれている。「白人から迫害され、危険にさらされ、投獄されたりすると、こんな運動さえしなければ、安全だし、家族と楽しく平和に伝道者の生活ができる。そういう人もいるようだ。もうやめよう、としばしば思う」。キング牧師の心には大きな闘いがあった。自分一人がいくら叫んだところでどうなるものでもない。それよりはいっさいを神にゆだね、自分は神の御言葉だけを伝える、平和で感謝と喜びのある生涯を送ったほうがよいのではないか、と。しかし、そのとき、神の不思議な力が働いて、自分を黒人解放運動へと駆り立てる、と言うのである。

     聖霊の迫りとは、それは損だ、それはつまらないことだとわかっているのに、なぜかそうせずにいられなくさせていく力のことであると思う。自分の命も、そのほかのいろいろなものも問題とせず、私たちをその道へ追いやっていく、そういう力ではないか。パウロは「投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています」と言っている。彼は霊に迫られて、エルサレムに行かないではおれなかった。

     神の思いは、イエスが十字架上で流した地によってすべての人々が清められて永遠の命を得ることである。私たちは、何もしないでよいわけではない。第一に自分に注意する。長老たちが自分自身と群れ全体に注意するのはイエスの教えを守って救いを実現するためである。第二に、群れのことに気をくばる。自分に注意しない人は、決して外の人びとに注意することはできない。最後に、群れを、神の言葉にゆだねる。つまり「離す」のである。しかしそれは、神に向かって離すのです。私たちがそうするのは、御言葉に神の国をつがせる力があるからです。その力を信じたい。

     しかし、もう一つ必要なことがある。「労苦して弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました」(使徒20:35)。特に弱い者への助けが勧められる。私たちが受ける者として、神の前に謙遜になるとき、私たちの与えるものは私たちを高慢にせず受ける者を辱めないであろう。フランチェスコの祈りのように、与える者は受けるのである。その逆ではない。それは、すべてのものを与えた後、死なれたイエス・キリストが、十字架の上からくださる賜物にほかならない。「受けるよりは与えるようが幸いである」。この原則を忘れないようにしたい。祈りをいたします。