カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスを見つめながら

    2021年9月26日
    エレミヤ書31:10~14、ヘブライ12:1~3
    関 伸子牧師

     昨年、ある方の葬礼拝の準備をしながら、トーマス・ロングという人が書いたキリスト者の死と葬儀についての本、『歌いつつ聖徒らと共に』を大変興味深く読みました。そこに次のことが記されていました。「死において私たちは、その体を「ここ」から「あそこ」へと動かされる必要のもとに置かれます。しかし、キリスト者の人生において「ここ」と「あそこ」がどこなのか、福音の物語なのである。それによれば「ここ」とは私たちが信仰において共に生きてきた人生であり、「あそこ」とは、私たちの姉妹や兄弟がそこへ向かって旅をしている神の御腕の中である。(中略)主イエスが『新しい生ける道を私たちのために開いてくださった』(ヘブライ10:20)からこそ、私たちがその旅を一歩一歩進むことができるのである」。洗礼を受けて信仰の道を旅してきた者が地上で最後の時も旅をする。そして、私たちは分かれの地点の葬儀の営みの旅をともにする。旅をしながら、私たちは賛美し、祈り、福音の物語を語り、それを聞き、神に感謝して、「さようなら」「また会う日まで」と言い、地上に残された者たちは、さらに旅を続けるのである。

     先程お読みしましたヘブライ人への手紙12章1節はこう記します。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。「証人」とは単なる傍観者ではなく、キリスト者に対してその信仰の生涯を可能にする生きた証言をしてくれる人であり、そこから殉教者の意味にも用いられるようになりました。著者によれば、11章までに挙げられた旧約の信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

     次に求められるのは、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることである。そこでまず身を軽くするために、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言われる。「忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上での生を終える時まで走り続けることが求められるのである。大切なのは競走に勝つことではなく、走り抜くことです!
     
     その時に何を目標とするのか。「信仰の導き手であり、完成者であるイエスをみつめながら」(2節)に注目したい。イエスは信仰の「アルケーゴス」(創始者、導き手)であり「テレイオーテース」(完成者、仕上げる人)である。私たちの「信仰の始まりと終わり」は、イエスの御業によるのである。そして、「初めと終わりの間」が「信仰生活」であり、導き手であるイエスへの信仰が尊いのである。

     雲のような信仰の星々はそれぞれに貴重な励ましを送ってくれる。しかし、信仰の走路を完走するための秘訣は、何といっても昔の星々ではなく、主イエス御自身を凝視することである。そこで、まず自分自身の罪に気づかされる。しかし、罪に気づくことは罪にとらわれることではありません。その時、もっと大切なことは、自分を見ないで、また周りの人や直面する苦難をみないで、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」。このことが大切です。神の働きと導きは、私たちが働くように働きかけてくださるのです。 そして、自分の能力や知恵を見るのではなくひたすら完成者であるイエスを仰ぎ見るのです。

     信仰者には忍耐することも求められる。突然の病を得ることがあります。病に倒れた時に、そこで、もう終わったという空しさの中で横たわるだけなのか。それとも、死を超えてなお自分は完成に至ると目的を見ることができているのか。そのような問いを私たちは捨てることはできないのです。完成者であるイエスを見つめるということは、まさにそのようなことではないか。先ほど預言者エレミヤの言葉を読みました。その最後はこういう言葉でした。

     「その時、おとめは踊って喜ぶ 若者も老人も一緒になって。私は彼らの嘆きを喜びに変え 彼らを慰め、悲しみに代えて喜びを与える」(エレミヤ31:13)。エレミヤは民族の苦境、亡国の危機にあって終わりではなくて満たされる時があると幻を語った。預言者は、これからこんな禍がありますということだけを告げるのが務めではなかった。歴史の目当て、歴史の完成を告げるところに預言者の使命がありました。もうこれで終わりだと思うところでその目標を指し示すことができる。

     主イエス・キリストが来られたということは、まさにそのような意味において目当てを示すことでした。今、神の右にあって、大祭司としてとりなしていてくださる主イエス・キリスト。私たちは神の前に向かって走るのです。そこに目標があります。私たちの教会の先輩たちも走り抜いて神のみもとに至った。私たちの後に続く者もそうでしょう。このような慰めに満ちた走り抜く歩みを与えられて恵みに感謝し、私たちも、イエス・キリスを見つめながら、与えられている地上のいのちを生き切りたいと願います。