カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神に愛されている者として

    2021年9月19日
    詩編119:33~40、エフェソ5:1~5
    関 伸子牧師

     パウロがエフェソとその近辺の諸教会に宛てて獄中から書いたエフェソの信徒への手紙の第5章1節は、「ですから」と、一つの区切りを示しながら、「神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい」と記す。「神に倣う」いう表現を聞いてみなさんはどう思われますか。私は特異な感じを受けます。新約聖書ではここにしか出てきません。

     「倣う」という言葉は、「まねる」、つまりイミテーション(模造品)ですけれども、聖書は、つねに良い意味で用います。つまり神のまねをするのです。もともと「学ぶ」という言葉は、「まねる」から来たと言われています。神さまのまねをしなさい、あるいはキリストにまねなさい、ということは、トマス・ア・ケンピスが書いた有名な「イミタチオ・クリスティ(キリストの模倣)」にあります。

     けれども、いったい誰が「キリストのまね」ができるでしょう。私たちは十字架にかかり、人の罪をあがなうことはできません。古代の教父クリソストモスは、神のゆるしと人間のゆるしには大きな違いがあると言っています。「なぜならば、もしあなたがゆるすなら、他人があなたにゆるしかえすでしょう。しかし、神には、あなたをゆるしても、何もかえってこないのです。(中略)。しかも神は、何の危険もなしに、ただゆるすのではありません。御自身の御子を危険にさらしてゆるすのです」。説得力のあることばです。

     その動機は「神に愛された子どもである」こと。神に愛されている者として「愛の内に歩みなさい」と勧められている。私たちは神に愛されている子どもなのである。したがって、「神に倣う」ことは、キリストによって示された愛に歩くことであると説明され、言い換えられている。私たちは神にふさわしい者でないとしても、「神に愛される子ども」として無条件に招かれ、受け入れられているのである。

     しかし、そのうえで、私たちはこれに続く言葉を真摯に自らに問うべきです。「聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません」(3節)。この言い方は、とても大切な真理を含んでいます。それは、あなたがたがすでに「聖なる者」とされていることです。パウロは、「聖なる者になるために」とは言いません。「聖なる者になりたければ」とも言いません。「聖なる者にふさわしく」という言い方は、すでに聖なる者とされているのだから、という意味です。「聖なる者」とは、キリストを通して神を信じている者を指します。つまり、キリスト者のことです。みなさんは、「あなたは聖なる者です」と言われているのです!

    3節で「淫らな者」にも触れる。パウロは、テサロニケの信徒への手紙一第4章3節から5節でこう語る。「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。淫らな行いを避け、おのおの気を付けて、自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはなりません」。ここには、からだを敵視する禁欲や軽視する享楽ではなく、互いのからだを尊く保つこと、大切にすることが言われている。

     先ほど詩編第119編の33節から40節をお読みしました。「主よ、あなたの掟の道を示してください 私が終わりまでそれに従うことができるように」(33節)。私はこの「終わりまで」という言葉に心惹かれる。人生にも神を信じ始める時と、神により頼み続ける人々に訪れる栄光、喜び、平安がある。信じ始め、信じ続ける、終わりまで。これが大切である。私たちは神に愛されていること、そして私たちの歩みは神の贖いのうちにあることを神は教えてくださる。「虚しいものを見ないよう、私の目をそらせ あなたの道で私を生かしてください」(37節)。これは、「あなた言葉にしたがって私を恵んでください」と訳せる。私たちは神の恵みのなかにある。そのことに心より感謝する。

     「感謝」とは、神の無償の「恵み」に対する適切な応答のことであり、「聖なる人々」にふさわしいふるまいであると同時に、周囲に「良い香り」を放つものである。「むしろ感謝の言葉を口にしなさい」(エフェソ5:4)。常に他者への感謝を語り、神を賛美する人のなんとよき香りを放っていることだろう。「香りのよい備え物」となられたキリストのように。しかし、なんと耳の痛い言葉ではないか。私たちが無意味な泡のように消えていく言葉をまき散らし、その言葉で他者を傷つけたり、他者を責めたりしているとき、私たちは自分自身をも傷つけている。その反面、いったいどれだけの感謝の言葉が、そして賛美の言葉が私たちの口から発せられるだろうか。

     なれるはずである。なぜなら私たちは神に愛されている子どもなのだから。私たちはキリストに抱き上げられ、祝福されてきた子どもなのだから! 私たちが神の愛の中にあることを忘れず、祈り続けるなら、語るべき言葉は必ず与えられるに違いありません。そのことを信じて、神に倣う者であり続けたい。お祈りいたします。