カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 誰に従うのか

    2022年1月16日
    エレミヤ1:4~10、マルコによる福音書1:14~20
    関 伸子牧師

     マルコによる福音書には、主イエスが伝道を始められたのは何年何月であったというような記事はありません。主イエスの誕生については、たとえばルカによる福音書では、皇帝アウグストの勅令が出て住民登録が行われた年、と記してあります。主イエスの伝道開始については、このマルコによる福音書では「ヨハネが捕らえられた後」(14節)とだけ書いてあります。

     バプテスマのヨハネは、主イエスを直接、指し示した預言者であります。捕らえられ、殺されたヨハネの生涯の最後は、主イエスのご生涯がどういうものであるかを暗示しているのであり、主イエスの十字架と符合します。救い主であられる主イエスは、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(1:11)として、神がお遣わしになったお方です。しかしこのお方は、「神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして 僕の形をとり 人間と同じものになられました。人間の姿で現れ へりくだって、死に至るまで 従順でした」(フィリピ2:6~8)。

     主イエスも、バプテスマのヨハネと同様に「悔い改めよ」と言われます。けれども「悔い改めて福音を信じなさい」と言われた、と記してあります。ヨハネは悔い改めて良い行いをしなさい、と言いました。神の審きが来るから、というのがその理由です。主イエスは、悔い改めなさい。つまり、心の向きを変えなさい、そして福音、すなわち、神からの良い知らせを信じなさい、と言われるのです。

     「時は満ち、神の国は近づいた」(15節)と主イエスは明言し、この証言とともに主の日が到来しました。キリスト者であることは、このカイロスに注意していること、つまり、私たちの「今、ここ」において神が御自分を示される特別な瞬間に注意をしていることであります。

     最初の弟子たちは福音を聞きます。そして、イエスの働きに加わるように招かれます。主イエスは、私たちをただ福音の批判をするために来られたのではなく、証人を通して、福音が継続することを望んでおられます。どんなにすばらしい出来事も、それを知らせる人がいなければ伝わりません。たとえそのときガリラヤ湖畔で彼らの様子を目撃したとしても、その場面だけ見るのなら、なぜ彼らが網を置いてその男に従っていったのかはわからないでしょう。証人には、召し、招きが必要です。

     主イエスは、シモンとその兄弟アンデレとが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは漁師でした。イエスさまはいつも一人ひとりを召し、癒し、励ましてくださいます。イエス・キリストにおいて本当の解放が起こるのは、イエスが一人ひとりを大切にしてその名を呼んでくださるからです。それどころか、12弟子をお召しになる時、夜を徹して祈られたのです(ルカ6:12)。イエス・キリストにおいて本当の解放が起こるのは、イエスが一人ひとりを大切にして、その名を呼んでくださるからです。イエスさまの中に、二千年の時代を経だてた今も、私の名を呼んで、暖かく召し、導いてくださるお方を見いだすのです。名が覚えてられていること、それが救いです。

     網と父を捨てると言っても、必ずしも日常から離れることではないのです。日常のままであっても、主イエスに呼ばれるなら、網も父も全く違った姿に変わります。捨てなければならないのは古い網と父であります。捨てるのは新たに受けるためです。

     エレミヤ書第1章4節から19節にエレミヤの召命のことが記されています。前半の4節から10節、「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた」と神がエレミヤに語りかけています。彼の職務は「諸国民の預言者」であり、それは、エレミヤが生まれる前から神が定めた天職だと断言します。神の命じる言葉には、諸国民諸王国に対して、「引き抜き、恐し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるためにの権威が与えられています。このような課題に、一人の若者が耐え得るでしょうか。それこそがエレミヤに与えられた使命なのでありました。これらの言葉はエレミヤ書に数回繰り返されています。激動の時代を表わすキーワードです。

     神は若者を召されます。また、普通の人々を召されました。12弟子は普通の人でした。本当に、心の方向転換をし、主イエスを見るならば、主イエスに従おうという時には、一切のものから本当に自由になることができる。召しにおいては、「捨てる」ことと「生かす」ことが一つに結ばれます。世俗性を忘れて聖職になるのではなく、この世俗性の中で召されて、その中で証しをしていくのです。主イエスに真に聞き従い、運命を共にすることのほうが、限りあるこの地上のものに、自分を委ねるより、はるかに安全なのです。絶対に空しくならない、本当の命を求めていきましょう。お祈りをいたします。