カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の国は今ここに

    2022年1月23日
    申命記30:11~15、マルコによる福音書1:21~28
    関 伸子牧師

     主イエスの宣教は言葉による教えと行為によるしるし(悪霊を追い出す)ことでした。弟子たちを遣わす時、「宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせる」(3:14~15)ことからも、そのことがよく分かります。

     「一行はカフェルナウムについた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた」(21節)。冒頭ではイエスが会堂に「入って」教えたとあり、末尾の28節ではイエスの評判がガリラヤ地方の至る所に「出た(広まった)」とあります。

     信仰とは「入ること」。主イエスの宣教も、ご自身が「入っていく」ことから始まりました。ではイエスはどこに入っていかれたのでしょう。「イエスが中に入って教えると、その評判が外に出て行く」と述べることによって、イエスの「教え」の力(権威)が強調されています。出来事は会堂の中で起こります。会堂とは、イスラエルの民がバビロニア捕囚時代に始 まったユダヤ教の伝統ある礼拝の中心でした。そこでは今のキリスト教会のように聖書が読まれ説教がありました。イエスはこのユダヤ教の伝統をそのまま守られたのです。かし、そこに人びとが驚嘆するような、新しいものがありました。主イエスは人間生活のあらゆる場から悪霊を追い出し、神の国を実現するためにこの世に来られました。人間のあらゆる生活の場を清めるための入場であります。

     「するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」(24節)。イエスは汚れを避けて通られたのではなく、汚れた霊に正面から出会われます。ファリサイと言う言葉は「分離する」という意味です。ファリサイ派の人々や律法学者は、聖と汚れとを分離して、汚れに近寄らないようにしました。しかし、イエスは汚れを避けずに、それに直面しました。この汚れた霊に出会う時の、イエスさまのなさり方は、驚くべきことです。「イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った」(25~26節)。汚れた霊の働きを滅ぼすために、聖なる霊に満たされて主イエスは来られたのであります。

    ここには「黙れ」と「この人から出て行け」という二つの命令があります。「黙れ」はこの人に行った言葉、「この人から出て行け」は汚れた霊に言った言葉です。「黙れ」とは、沈黙の命令です。ここに大切なことがあります。この人がイエスの出現で恐怖を覚えてあらぬことを口走ったとしても、今、「黙る」必要があります。なぜなら、イエスがこの悪霊に「出て行け」と命じているのですから。そして、そこに主イエスがおられ、神が臨在しているなら、悪霊は出てゆきます。真のいやしは、イエスが病において勝利されることだからです。口を閉じ、ひたすら耳を開く。そのことは具体的には、祈って神に聞きなさい。また、耳を開いて心の病める者の言うことを聞きなさい。その時、神の臨在を覚え、「神こそわが大岩、わが救い、わが砦」(詩62:7)と思えるでしょう。

     「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く」(27節)。これは、人々の口から出た最初の驚きと反応を示す言葉であります。「権威ある新しい教え」、これが、主イエスが人々に与えた第一印象でした。人々は決して「権威ある新しいわざだ」とは言っていない点に注意したいと思います。奇跡と呼ばれるような癒しのわざが次々となされ、主イエスの活動に含まれてはいますが、その中心はあくまでもイエスの語られた神の国の福音であり、民衆の評価はまさしく、イエスの「教え」に向けられていたのであります。

     ところが今日の箇所は「教え」の内容について何も語りません。マルコが語るのはそれが新しい「権威」に満ちているということです。イエスは律法学者のようには教えません。律法学者の権威は律法から来ます。律法に真の権威があるからであります。律法学者が権威を主張できるのは、正しく律法を解釈できたときである。だが、イエスの権威は外から来るのではなく、内から生じる権威であります。

     主イエスは「叫び」を聞いたときどうたのでしょうか。イエスは逃げませんでした。耳を塞ぎませんでした。そして、権力ではなく(イエスは権力を一切持ちませんでした)、内にある神の権威をもって、「黙れ。この人から出ていけ」と、彼を苦しめる悪しき力に対峙したのです。「時は満ちた。神の国は近づいた」。それは、あの叫び声をあげた男においても真実でありました。イエスの命令と共に悪霊の支配は終わり、神の支配が到来したのであります。叫びは今も続いています。主イエスは叫びを聴き取ってくださいます。そして、叫びのうちに苦しんでいる人間がいるのを見てくださいます。そして人を縛って苦しめる諸々の権力を無力化し、神の権威をもって人間を取り戻してくださるのです。「あなたこそ私たちの罪の贖い主、神の子イエス・キリスト」ですという告白こそ、この新しい権威の担い手に告白する私たちの信仰の言い表しとして、今朝の礼拝にふさわしいものです。また、この「権威ある新しい教え」を宣べ伝えることこそ、教会に、そして、私たち一人ひとりに与えられた責任なのです。お祈りをいたします。