カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の望みにしたがう

    2022年1月30日
    創世記3:16~19、マルコによる福音書1:40~45
    関 伸子牧師

     主イエスは諸会堂で説教を続けます。マルコによる福音書第1章40節から45節には、ガリラヤ全地に展開された主イエスの活動の一環として「規定の病」の人のいやしの出来事が記されています。

     「規定の病」と訳されているギリシア語レプラを、新共同訳は、「重い皮膚病」「かび」と訳し分け、レプラを「らい病」としていましたが、ハンセン病回復者の人たちからの批判に応えて1996年、「重い皮膚病」と改めました。聖書協会共同訳の「規定の病」は、「ヘブライ語聖書に規定されている病」という意味です。レプラを患う者は律法では不浄の者と見なされ、イスラエルの宿営の中に住むことを許されず、誰かが近づいたら、「私は汚れた者です。汚れた者です」と呼んで警告しなければならないとレビ記にあります(13:45~46)。しかし、この人の思い切った行為と言葉は、懇願の真剣さとイエスの力に対する確信を感じます。

     「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言うこの規定の病を患っている人は、ずっと疎外されてきたことでしょう。しかし、なお、自分が清められる可能性を信じました。あきらめていないのです。「清くする」は「いやす」を意味します。「いやし」とは、悪霊を追い出すことであり、それを主イエスは行われ、また他のいやし手も行っていました。しかし、主イエスは「いやし」に際して、他のいやし手のように、単に悪霊のみを問題にされたのではなく、悪霊の頭であるサタンを相手にされています。つまり、主は、「いやし」において、本当には、悪霊の後ろにいるサタンと戦い、世界を支配する悪の力と争っておられたということになるのです。主イエスの病のいやしが、罪の赦し、すなわち魂のいやしを伴うことも大切な点です。

     ある注解書に、スイスの代表的詩人でもある牧師マルティはここに連続して起こる癒しの奇跡を説きながら、聴き手のなかに当然あると予想される癒しを求める願いに言及していることを紹介していました。「イエスは生きておられる。我々のまんなかにあって支配しておられる。我々の肉体をも支配しておられる。それなのに、我々がその主に癒しを幾度願っても癒されないままであることもしばしばなのはなぜか。それは主が望まれたのが健康以上のものであったからである。それは神の国である。いつまでも罪責や、憎しみや、不正が存続し続けることを望まれなかった」。マルティが書くように、主の意志が男の願いを受け止めているのだと思います。

     イエスは「深く憐れんで」、この人の「お望みならば」という願いをそのまま受けて、「私は望む。清くなれ」と言い、手を伸ばしてこの人に触れました。イエスが触ったことは、神の手がこの人に届いたということです。神が自分の人生に触れてくださったのです。「深く憐れんで」と訳している語は「怒りに満ちて」と読む写本もあります。雨宮慧神父は注解でこう書いています。「イエスの怒りはその病のむごたらしさに向けている。規定の病を患っている人に向けられているのではない。病を生みだし、神の創った秩序を破壊する悪霊に向けられている」。主イエスにとっては、病はサタンの支配、悪の力の現れですから、そのことから見れば、イエスは悪霊に対して怒っておられたというのには説得力あると思います。

     今日ではハンセン病に対する偏見は消えていると考えられるかもしれませんが、はたしてそうでしょうか。2004年、藤田真一氏が編著した、森本美代治・美恵子さんが語る『証言・日本人の過ち ハンセン病を生きて』を読み、多磨全生園を訪れ、森本美代治さんと実際にお会いしてお話しを伺った時のことを思い出します。森本さんはカトリックの信仰を持った方です。鹿児島県喜界島に生まれ、中学生の時に病気がはっきりして、友人から「鬼みたいな顔」と言われたと聞きました。大人になってからは病気をひた隠しに隠して大学を出て仕事をしたそうです。かっこいいということが人間を判断する重要基準となってしまった私たちの社会にあって、かっこの悪い人びとへの偏見は決して消えてはいないのではないかと思います。

     「規定の病」の人をきよめた後、主イエスはこう言いました。「イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、こう言われた。『誰にも、何も話さないように気をつけなさい』」(44節)。なぜこのように言われたのでしょう。イエスは、この人を守ろうとしたのではないでしょうか。騒ぎの渦中で持ち上げられ、次に落とされ、再び追い払われ、社会に翻弄されて苦しむことのないように。

     私たちも、皆、このいやされた人と同じように主イエスに触れていただいた者です。主が、私たちを変えてくださいました。その喜びの出来事を、私たちも人々に告げ、言い広めたいと思います。主イエスに触れられた者として、隣人の立場に立ち、その重荷を担う。そこに、いやされた者に期待されている歩みがあるからです。お祈りをいたします。