カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 試練の中で示される道

    2022年3月6日
    エレミヤ31:27~34、マルコによる福音書1:12~15
    関 伸子牧師

     受難節第1主日の礼拝をささげています。受難節に入る前にロシア軍によるウクライナ侵攻により首都キエフが砲撃され、他の地域でも攻撃が激化しています。戦火の続くウクライナ、新型コロナウイルスが急拡大している香港、人権侵害が深刻化するミャンマー、対立が続くイスラエルとパレスチナ・・・。天地万物を造られた神は、滅びゆくこの世にあって、いったい何をしておられるのか、と問いたくなる世界情勢です。

     マルコによる福音書第1章で、神の国の到来が宣言されます。「それからすぐに」、これはマルコの特徴のある常套句で「すぐに」という時間的な緊張感をもたらしています。さらにここでは時間的な近接以上に、主の受洗の出来事と荒れ野への導かれることが深く結ばれていることを示しています。

     主の洗礼が荒れ野への歩みに直接結びついていたことは、聖霊の業によってなされたことで明らかにされます。ここでは洗礼においてくだった、まさのその聖霊が神の子イエスをすぐに荒れ野へと送り出したのです。この「送り出す」には強制するニュアンスがあります。聖霊は神の子であるイエスを強いて荒れ野へと追放し、主イエスは聖霊によって追いやられました。そこには相互に緊張した関係があることを読み取ることができます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心のままに」(14:36)と祈られたことにつながります。父である神と独り子イエスとの関係は常に人格的な緊張があり、それが主イエスの公生涯を貫いていると見ることができます。

     聖書において荒れ野は、試練の場であると同時に、神との出会いの場です。私たちは、主イエスの荒れ野の誘惑が、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった直後のことであると、聖書によって知っていますけれども、その受洗のとき「天が裂けて霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのをご覧になった」と記されています。つまり、主イエスによって、神が天を裂いて人間の住む地上に降ってこられた、ということです。そして人間の世界に、人間の歴史に、介入なさったということです。神はご自分の世界をつくり、そこにだけお住みになって、ときどき気まぐれに人間の世界に干渉する、というような異教の神々のような存在ではなく、私たち人間との交わりを求めて、人間が神を知り、信じることができるように、み子においてご自分をあらわされたのです。サタンが力を振るうと思われるその世界に、神がサタンを滅ぼすべく、みわざを進めていかれます。
     
     サタンが力をふるう世界は、人間の罪による神の創造の秩序の破壊の世界です。神がお創りになった秩序と調和の世界は、楽園と呼ばれるべきものでしょう。13節に「サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた」というのは、まさしく楽園の回復を象徴するものではないでしょうか。そのことは預言者イザヤが預言しています(イザヤ11:6~9)。マルコによる福音書によれば、サタンは仕事が終わっても主のそばから退去したとは書いてありませんし、野獣が主イエスと一緒に仕えています。荒れ野に遣わされながら、主は孤独ではありません。

     この時代の終末観によれば、終末の時には天使が人間に仕えるとされ、獣も人間に害を加えることがなくなるとされていますから、マルコの関心は、イエスがどのように試練を克服したかにはなく、イエスとともに終末の時が到来していると説くことにあります。そうであれば、ガリラヤに戻ったイエスの第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であったのもごく自然なことです。

     時が満ち、神の国が近づいたのは、私たちが悔い改めたからではありません。それは神の賜物であり、イエスによってもたらされます。「悔い改める」とは神が造り出した新たな事態に全面的に向きを整えることです。したがって、それは生き方の手直しにはとどまらず、生き方が180度転換することを意味します。神の支配に向きを変えると、それが悔い改めなのです。自分中心の生活から、神中心の生活に転換する。それは「喜びのおとずれ」を信じることに通じます。望みのない時代に、望みをもって信じるのです。どこでも神の国の到来を信じ続けるのです。改革者マルティン・ルターは、「福音を信じるだけでは足りない。悪魔の力強さを本当に知り、その前に弱い人間である自分の姿を見なくてはならない。それだからこそ、わたしたちはただ福音によりたのむのである」と言いました。私たちは悪魔に負ける、だから必死になって、キリストとその福音によりすがるのだというのです。悲しみや暗さや運命の力を信じるのではなく、もっと強い、イエス・キリストというお方に信頼し、その方をのみ信じるのです。

     受難節のこの期間、主イエスの言葉を聞き、日々悔い改めを新たにして、この望みのない時代に、望みをもって信じる者としての歩みを続けたいと思います。祈ります。