カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の導きに委ねる

    2022年3月20日
    イザヤ書48:1~8、マルコ8:27~38
    関 伸子牧師

     今日は、マルコ福音書のちょうど真ん中にある大切な箇所を読みます。主イエスのことはすでにパレスチナ地方に知れ渡っており、人々はイエスをメシアに先立つ終末的な人物だと見ています。そこでイエスが弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」問いかけると、ペトロは皆を代表して「あなたは、メシアです」と告白します。

     大変興味深いことに、このことが起こったのはユダヤではなく、フィリポ・カイサリアという地方であり、しかも主イエスが旅をしておられる途中であると記されています。礼拝の場所、神がそこにおられると考えられているところではなく、むしろ周辺の、しかも外国語の名がつけられている地方において、旅の途中で「人々は、私のことを何者だと言っているか」と主イエスは問われるのです。私たちは、日々の旅の途中で、こういう所では信仰は関係ないのではないかとさえ思われる場面で、「あなたは、メシアです」と告白しているでしょうか。それが問われています。

     マタイによる福音書では弟子を代表してペトロが「あなたはキリスト(メシア)、生ける神の子です」と告白すると、イエスは「バルヨナ・シモン、あなたは幸い。・・・・・・あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と述べて、ペトロをたたえ、告白の正しさを明確にします。これに対して、マルコ福音書はペトロの告白は、「あなたは、メシアです」で終わっていますし、イエスもペトロをほめてはいません。確かにイエスはペトロが告白するようにキリストです。しかし、十字架にのぼるキリストなのです。

     当時のユダヤ人はメシアがユダヤ人を救うために来ると信じていました。ペトロが口にしたときにも、そうであったかもしれません。人間が勝手に想像し期待している救い主であるかもしれないのです。しかし、イエスは違う。すべての民が救われることを主イエスは考えておられました。ですから、うっかりペトロが自分の考えに従って、ユダヤ流のメシア理解を宣言するのでは困る。だから戒められたのではないでしょうか。

     ここで「戒められた」と訳されていますが、この語は悪霊を戒めるとか、嵐の湖を鎮めるという時に用いられます。たとえばイザヤ書第55章11節や50章2節を見ると、天地や新しい生命を創造する神の意志、かつて紅海の奇跡で海を二つに分けられたような神の力を表す言葉として使われます。そのような神の言葉のもつ力を主イエスも持っておられることを指すのが「戒める」という言葉なのです。ある学者は、「かくて、この『戒められた』という言葉の中に、イエスは限りない主であることが力強く示されているのだ」と言っています。

     ペトロのキリスト告白に沈黙を命じたイエスは自分の歩む道(苦しみ、排斥され、殺され、復活する道)を述べるときには、「はっきりと」(32節)述べます。イエスは「はっきりと」受難を予告しますが、ペトロはそれが理解できません。

     そこでペトロはイエスをわきに連れ出していさめ始めますが、これをイエスは「サタン」とまで呼んで「叱り」つけます。イエスは「弟子たちを見ながら」、ペトロに「サタン、引き下がれ」と命じたのです。これを直訳すれば、「私の後ろに退け、サタン」となります。主がどのような意味でメシアであられるのかは十字架に至って初めて、はっきりするのです。主はどのようなメシアであるかについてはご自分で決め、ご自分の方から明らかにされるのです。

     主イエスはさらに群衆を呼び寄せて、ご自分に従うことの意味を教えます。イエスは十字架へと向かうメシアです。ですから、イエスに従う者も「自分を捨て、十字架を背負って」続くことになります。この「捨てる」は「関わりを否定する」の意味です。人間の常識から抜け出せない自分とのかかわりを捨てるのは、「自分の十字架を背負う」ためです。ここでの「十字架」とは、人間の常識とはかけ離れた「神の思い」のことです。神の思いが人間の思いどおりであるなら、苦しみはありえません。イエスは神の思いにしたがって、十字架を担われました。イエスに従う者も、神の思いが示す導きに委ねます。
     
     まだわかっていない弟子たち。しかし、イエスはその弟子たちに、御自分の秘密を明かされたのです。真剣にキリスト告白をしようとする弟子たちに、イエスは初めてご自身の受難と死と復活を明かされました。それはギリシア語のデイ(必ず・・・・・・することになっている)が示すように神による必然でした。神の計画がそこにあり、ご自分はそれを成就するために己をささげるのです。深い谷底へと降りていかなければ人間の解放はないのです。それをまだ理解できない弟子たちです。しかし、やがてわかる時が来ます。その時、キリストに従う者たちもまた十字架を負って進む道を避けてはならないのです。主イエスの明らかにされた福音に従い、私たちも日々の生活の中で、「あなたは、キリストです」と告白し、キリストに従う者でありたいと思います。祈ります。