カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 共にいてくださる主イエス

    2022年3月27日
    出エジプト24:12~18、マルコによる福音書19:2~10
    関 伸子牧師

     マルコ福音書第9章2節以下は「山上の変貌」と言われてきた箇所です。イエス・キリストの弟子たちは、しばしば主の栄光を目撃しました。彼らは、復活だけでなく、それらの出来事の証人でもあったのです。しかし、その意味はすぐには分からなかったようです。今日の箇所はその栄光の記事であり、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。主はたびたび、祈るために人里離れたところに退かれ、山に登られ、父なる神との時を持たれました。

     出エジプト記第24章を読むと、モーセはひとりで山に登り、雲が6日間山を覆い、7日目に主は雲の中からモーセに語りかけられました。モーセは40日40夜山に留まり、その間、火のような「神の栄光」が山の上に留まったといいます。モーセは主なる神との交わりの中で神の声を聞き、それを民に伝える使命を与えられました。

     山は古くから重要な啓示がある場所です。やがて、主イエスの姿が3人の弟子たちの目の前で変わり、衣は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の服も及ばないほど白くなりました。ここで主は変容されます。この主の変容は、単に服が真っ白く輝いたという表面的なことではなく、まさに、神の子たる主のみ姿が目に見える形で弟子たちに示されたのです。

     すると、エリヤがモーセと共に表れて、主イエスと語り合っていました。エリヤもモーセもイスラエルの歴史の中では特別な存在でした。エリヤは死を経験することなく天に挙げられた人であり(王下2:11)、モーセは人びとが恐れて近づけないほど神の栄光を受けて顔が輝いた人です(出34:30)。律法を象徴するモーセ、預言を象徴するエリヤ。この二人がイエスのことを語っているという光景に圧倒されたペトロは、衝撃のあまり「どういえばよいかわからなかった」ので、主イエスに三人のために「幕屋を三つ建てましょう」と言います。彼は神に対する畏れと聖なる喜びにより小屋を造り、主の栄光がそこにとどまるのを願ったのでしょう。

     その時です。雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのは。神は雲ですべてを覆い、「これは私の愛する子。これに聞け」と言われます。雲が消えると元の姿に戻ったイエスがいるだけです。エリヤとモーセは役目を果たし終えて消えたのです。

    「これは私の愛する子。これに聞け」。これこそキリストの弟子の使命です。この天からの声は、「主がだれであるのか」を明らかにしています。テモテへの手紙一第1章15節は「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します」と言われています。ここで、「主が誰でなければいけないのか」、ということが重大な問題になってきます。主が神の子だから、私たちは主が十字架にかかられたことにより、罪から救われるのです。

     「これに聞け」、これは、聖書は私たちに神の言葉を徹底的に「聞くこと」を要求します。申命記第6章4節から9節までは、「聞け、イスラエルよ」で始まる信仰の告白です。最初の言葉は「シェマ(聞け)」になっており、そのためにこの部分全体が「シェマ」と呼ばれています。「聞くこと」が信仰においていかに重要かということを物語っています。

     この後、主イエスは山を下ります。山を下りるとは、その問題の渦中へとあえて入っていくことなのです。イエスは「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と招かれます。主に従う教会は苦難の道を進みます。しかし主は教会のために灯火を与えてくださいました。栄光に輝くキリスト。「これに聞け」という御声。その確かな記憶が、ここぞというとき力を発揮する、生きた共同の記憶です。私たちは知っています。罪人たちの中に踏み込み、遂には十字架にまで至る受難の人イエスこそ、栄光の勝利者キリストであることを。

     キリスト者のどんな苦難も、意味のない苦難ではありません。私たちはこの道を、ひとりで進まなければならないということはないのです。そこに主が共にいてくださる。そして、この道はいのちに通じています。キリストの栄光、キリストのいのちの輝きがやがて私たちを照らします。

     変貌するのはキリストだけではありません。私たちもまた変えられるのです。「これは私の愛する子。これに聞け」。私たちが聞き従う方、このキリストが一緒にいてくださって私たちを変えてくださる。自分の小さな世界に生きることから、神の御業に、神の国の完成に奉仕することに私たちを振るい立たせる。この声は福音であり、私たちを解き放ち、自由にする声です。信仰生活を送りながら私たちは、主の御旨を問うことの大切さを学びます。しかも、その御旨に従って生きることは、私たちの喜びなのです。信仰者は、神から離れて魂の平安も幸いもないこと知っています。この主に心から信頼して歩むことにより、神の恵みの世界に生き続けたいと思います。祈ります。