カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主に従う喜び

    2022年4月3日
    イザヤ53:10~11、マルコ10:35~45
    関 伸子牧師

     キリスト者の生活とはどのようなものなのか、と問われたらみなさんはどう答えますか。それは、主イエス・キリストに従って行く生活です。しかし、どのように従っていくのか。そして、本当に従うためには、主イエスのお考えや願いを知らなければなりません。なぜなら、私たちの願いや考えは勝手なものになりやすく、また、うつろいやすいからです。

     ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「進み出て」(原意では「~の方へ行く」)という新約聖書の中でこの箇所にしか用いられていない動詞を使って、イエスのもとに押しかけて行き、直接談判をして、二人はまず「先生」と呼びかけ、直ちに自分たちの願望を切り出します。35節をできる限り直訳すると、「私たちは望んでいます。私たちがあなたにお願いすることは、どんなことでもあなたが私たちのためにかなえてくださることを」。イエスは彼らと調子を合わせるかの如く「私がお前たちに何をすることを、お前たちは望むのか」と尋ねます(36節)。二人は間髪を入れずに即答します。ここでも「お与えください」という命令形が文頭に来ています。「一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に、私たちが座れるようにあなたの栄光の中で」(37節)。

     ヤコブとヨハネはイエスの変容に立ち会ったとき、栄光に輝くイエスの姿を目撃しました。彼らはイエスの左右の座を占めて、その栄光にあずかる自分たちの姿を夢見ていたに違いありません。イエスは、臆面もなく栄光の座を求める弟子たちの思い違いをただそうとされます。「お前たちは分かっていないのだ。何を願っているかを」(38節)。イエスの弟子にとっては栄光の座を望むよりも、イエス御自身の受ける苦しみにあずかり、イエスと結ばれるほうがはるかに重要なのです。

     主の道を歩むことになる弟子だからこそ、どうしても身につけなければならないことがあります。41節以後は、ヤコブとヨハネの勝手な吐出に腹を立てた10人をイエスは呼び集めて語りかけます。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42~44節)。

     弟子たちの目の前に二つの生き方がおかれています。ひとつはこの世(「異邦人」)の権力者の道であり、他はイエスの歩む道です。この時代にあって、人類の三分の二の人々が被っている飢えという状況や、独裁的諸政府による人間の諸権利への侵害は、私たちに緊急の取り組みを促します。私たち自身や、私たちの持っているものを周縁化された人々に仕えさせるように、そして、多くの人々を排除する不正義な現状を変革するようにと私たちを促します。

     ここでも弟子は報いに頼る、弱くて心もとない者たちです。しかし、彼らはつまずきながらも従うことをやめようとはしません。もちろん、イエスのように、人々に仕えるために、報いを求めずに苦難の道を歩めたら、そのほうがはるかに素晴らしいに違いありません。しかし、恐れのあまりよたよた歩く頼りない弟子ではあっても、イエスの後を追っている弟子たち。弟子とはそういう者なのであることを教えられます。

     「身代金」は「贖い」とも訳されている語で、奴隷などを解放するために支払われる代金などを意味しています。主イエスは人類を罪から解放するために、自分のいのちをそのためにささげたのです。「多くの人」は「数えきれないほど無数の人」、つまり雲霞のような人々という意味であり、この表現はマルコ福音書第14章24節では「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」という聖餐式の時に聞く言葉の中でも使われています。そして全体としては「主の苦難の僕」の第4の歌(イザヤ書第52章13節から第53章12節に基づいています。

     第二イザヤが説く「主の僕」が示しているように、仕えるとは人に仕えることであると同時に、神に仕えることです。この二つの「仕える」が一つに合わされるとき、過酷な運命を耐え忍ぶ力が生まれます。「仕えること」について、ボンヘッファーの『共に生きる生活』に教えられるところが多いと思います。たとえば、「言葉をつつしむこと」、「自分自身を取るに足らない者と思うこと」、「他の人の言葉に耳を傾けること」、「み言葉の証し」、「権威の奉仕」と、私たちの「仕える」姿勢の再点検をうながします。解説には、「告白教会の牧師研修所での若き牧師研修生たちとの共同生活の経験がもとになっている」と書いてあります。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない」という、主イエスの声が聞こえてきます。私たちの小さな、愚かな、そして、自分でも何を願っているのか分からないような願いにしがみつくのではなく、「わかりません。何を求めるべきか教えてください」と、からの手を差し出す素直さと、積極的な姿勢を持ち続けたいと思います。祈ります。