弟子たちへの招き
2022年4月10日
ヨナ書4:1~11、マルコによる福音書14:32~42
関 伸子牧師
主イエスは、数刻も経たないうちに離反してしまう弟子たちと共に、過越の食事の席から遠くはないゲッセマネの園に赴きます。そこからさらに、ペトロとヤコブとヨハネを伴って園に進みます。この三人は、「山上の変貌」(マルコ9:2以下)にも証人とされた人たちです。彼らはその時々に、神の臨在と働きの目撃者とされ、時至ったとき、これを証しする責任ある務めを担わされたのです。
ここにもペトロとヤコブとヨハネがいました。彼らはイエスが恐れもだえる姿を自分たちの目で見たのです。あの力に満ちた主が、山上で栄光に輝いた主が、どんな論敵にも動じない主が、ひどく恐れ、悶えておられる。しかもその姿を隠そうともせず、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と求めておられる。
イエスは少し先に進んで地にひれ伏し、「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるように」と祈り、こう言われました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのぞいてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。ここに全能の神にひたすら信頼して祈るイエスの姿があります。できることなら十字架の苦しみを取り除いてくださいと切に祈られました。
このゲッセマネの祈りを聞く時、主イエスが教えてくださった「主の祈り」を思い出します。「願わくはみ名をあがめさせたまえ」と、神についての祈りから始まります。神の御名があがめられること、それが中心であり、すべてのことの始まりです。しかし、イエスは、今、十字架にかかろうとする時、決してご自身が教えた祈りに従いませんでした。ひどく苦しみ悩み始め、「私は死ぬほど苦しい」と言います。そして最初の祈りは、「この杯を私から取りのけてください」でした。イエスにとっては、メシアとして受けるべき十字架の死の杯を意味します。にもかかわらず、「主よ、なぜなのですか」という矛盾への問いかけのなかに自らを置いて、イエスはこのように弱く、苦しみにくずおれやすく、あわてる人間になられたのです。
しかしその祈りはすぐにこう続きます。直訳では「しかし私が意思することではなく、あなたが意思することが(成りますように)」。イエスが「主の祈り」で言われた、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」という第一の祈りが現実に生きています。
私たちは祈りが聞かれなかったとしても失望してはなりません。祈りにおいて自我を乗り越え、祈りによって神のみこころに従う者となりたいと思います。
他方、弟子たちは眠ってしまいました。「心ははやっても、肉体は弱い」。新共同訳は「心は燃えても、肉体は弱い」と訳していました。この「肉体」とは、「神により頼んだりせず自分でやっていく」という肉的な人間のことです。それは強そうですけれども脆弱です。「心」はプレウマ(霊)。神により頼み、神によって生きるあり方です。「目を覚ましている」ということが、ここでイエスとの交わりの中にいる、留まるということです。しかし、弟子たちはどうしても眠り込んでしまうのです。これがペトロや弟子たち、そして私たちの姿です。
しかし、主は言われました。「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た」(41節de)。これは確かに、「さあ、時間だ」です。しかし、それだけではなく、時間(hora)の背後に、決定的瞬間(kairos)の到来が隠されていると読めます。「神の時」の到来にほかなりません。
ユダは「イエスを引き渡す」のですから、それは、まさに「裏切る」と訳されてふさわしいとも言えます。しかし、私たちのひとりのこととして、これを自分たちみなのことと考えるならば、弟子たちも、私たちもみな、なんと繰り返し、自分のものではないものを奪い、自分の意のままにしようとしていることでしょう。それならば、このような「引き渡し」は、なにについてであれ、私たち人間の罪そのものを言い表していることにほかなりません。
主イエスは十字架に向かって進まれます。弟子たちに対し、「立ち上がりなさい。さあ、一緒に行こう」、とおっしゃるのです。主の十字架のもとに来なさいと言われるのです。ここで、「行こう」というイエスの呼びかけは、引き渡しの行為が単にイスカリオテのユダの率先的な行為ではなく、神のご計画のもとに、イエスが主体的に受け止める出来事であることを示しています。これは、今日も、私たちに対する主イエスの呼びかけです。
この御言葉に頼って、私たちも、目をこすりながら、何かを語る言葉も持たないとしても、主イエスについて行くことができます。主日毎に十字架の恵みを知り、それに与ることを許されています。そして、主イエスは、私たちを復活の日まで導いてくださいます。主の御言葉によって、立ち直った弟子たちが歩んだ道を、私たちもまた踏みしめて行くことができるさいわいを主に感謝して、なお主に従って行きたいと思います。祈ります。