復活のいのちに生かされて
2022年4月17日
出エジプト記14:15~22、マルコによる福音書16:1~8
関 伸子牧師
Happy Easter! この地に今も戦いがありますけれども、主のご復活によって新しいいのちが始まります。マルコ福音書の復活物語はとても素朴です。しかし、8節の最後の言葉は「恐ろしかったからである」で終わっています。復活の記事、福音を語る福音書の最後の言葉が「恐ろしかったからである」となっていることはとても不思議です。
安息日は夕方に終わるのですけれども、夜のうちに香油を買っておいた女性たちは、日が出るとすぐに、イエスの遺体に香油を塗るために、墓に向かって行きます。埋葬の際、イエスの遺体には香油が塗られていたでしょうし、それを彼女たちは知っていたでしょうから、彼女たちのこの行為はイエスへの特別な思いを表わすものなのです。
墓へ向かう彼女たちの心配は、墓の前に置かれた大きな石でした。誰が取り除いてくれるかと心配していたのですけれども、到着してみると、石は取り除かれていて、すぐに墓の中に入ることができるのです。女たちが目撃したのはわきへ転がしてあった大きな石と、遺体のない墓です。そもそもイエスが墓穴から出てくる場面を見た者などいないのです。
出エジプト記第14章は、神がイスラエルをエジプトから救い出すために夜もすがら戦われ、海を二つに分けて民を導きだした様子を描き出しています。それと同じこと、いやそれをはるかに上回る解放の御業がここに起こったのです。目に見えるものは静かな空の墓のみ。しかしそこでは、神の偉大な御業が成し遂げられたのです。
しかし、ここで面白いのは、石が除かれていたのに、それを驚いてはいないことです。彼女たちが驚くのは、墓に入って、若者を見た時です(5節)。この若者が神の使いを表わすのは明らかですけれども、マルコは大袈裟な描写を避け、ただ「白い衣」を着ていたと書くことによってのみ、若者が神の世界に属する特別な存在であることを暗示するのに留めています。女性たちはそこにいる人が天使であると思ったわけではないでしょう。よく分からなかったに違いありません。しかし、その場の空気から感じ取ったことは、人間ではない力がここに働いているということでした。まだ、復活があったことに気が付いたわけではありません。しかし、この何もない墓の中に、何か不思議な力が働いていることを知らされたのです。普通のことであったら、こんなに口も利けないほど驚いたり、震え上がったりするはずがありません。神の御手がここに働いていると思ったのでしょう。主イエスのお体が見つからないのも、それで説明がつくでしょうか。それよりは、その全体が、いかにもこわかったのです。
天使は、「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言っています。かねて言っていたのは、主イエスです。彼らが探しているのも、主イエスです。そこで大事なことは、このお方は、十字架につけられた方であった。十字架にかけられて殺されたしであったのです。その復活も、十字架につけられて死んだのに、よみがえらされた、ということなのです。かねて言われたとおり、というのは、十字架とともに考えなければならない、ということなのです。肉体に死だけを言っているのではなくて、罪によってもたらされた死のことです。
マルコはこの直後に、「震え上がり、正気を失って」「誰にも何も言わなかった」(8節)女性たちの姿を描いています。十字架の死を最後まで見守った勇敢な彼女たちでさえ、復活の知らせには震え上がってしまいました。しかしそのままでいいのか。黙ったままでいたなら復活の知らせは伝わりません。どうするのか。あなたがたが復活の証人として召されているのです。さあ行きなさい。墓場にいなかった者たち、すなわち逃げていた男の弟子たちは、女の証人たちを通して問いかけられます。「ガリラヤへ」。あの方はそこで待っておられるのです。あのガリラヤで。生まれ育ち、汗水流して働いたあの土地。主が伝道を始め、自分たちを召してくださったあの土地。主にお供して神の国を伝え、病める人を癒し、悪霊を追い払い、さまざまな人と共に食事をしたあのガリラヤです。
マルコ福音書を読んできた者たちは、ハッピーエンドの結末を読んで充足するのではありません。ゴールに来たと思ったところで、また巻頭に連れ戻されるのです。しかし、同じことを繰り返すのではありません。今度は、復活の主と共に歩き、働く、信仰の冒険を始めるのです。礼拝をささげているならば、生ける主と出会い、救いがいつも新たにされます。そして、私たちが遣わされていく生活の現場に、復活の主は待っておられます。実にイエスは、勝利して、今も生きておられるのです。復活を信じる者には新しい人生が始まります。それは墓石で閉じ込められない人生です。女性たちの沈黙にもかかわらず、人々が主の復活を信じたように。主イエスのご復活を心から喜び、目の前に開かれた新しい歩みを踏み出しましょう。祈ります。