主イエスの新しい戒め
2022年5月8日
レビ記19:9~18、ヨハネによる福音書13:31~35
関 伸子牧師
「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった』(31節)。今日のヨハネ福音書のテキストは、イスカリオテのユダの裏切りから始まります。ユダの裏切りがはっきりしたことによって、いわゆるイエス・キリストの受難がはじまります。その頂点は十字架の死です。ヨハネにとっては、今まで13章に渡ってイエスの言葉と業(奇跡)をつみ重ねて物語ってきたのですが、それらはすべてこの十字架と復活というイエスの救いの業の完成への「しるし」だったのです。それらが終わり、イエスがくり返し言われた「イエスの時」は今、来たのです。この「今や」という言葉には恐ろしいほどの重みがあります。「今や」、神から定められたその救いの業を完成し、神の栄光を表して、再び天の父のもとに帰られるのです。
イエスの十字架上の死がヨハネ福音書では「栄光の時」とみなされています。十字架上の死が栄光であるとは、まさにパラドクスですけれども、ヨハネの目は十字架に栄光を見ています。神の愛は、イエス・キリストによって弟子たちに上から与えられる恵みとなるのです。
しかし、この決定的な「今」においても、弟子たちはその意味を理解することが出来ないのです。イエスの心には、ご自分が去った後「弁護者、すなわち、父が私の名におってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:25、26)ことになっているとはいえ、しばらく目に見える姿で交わることが出来ない不憫さ、悲しみの思いが心にうずまいているのでしょう。
それにもかかわらず、弟子たちは、主イエスの言葉を、そしてやがて来る十字架の死の意味を全く理解することができません。その証拠が、ペトロの答えです。彼は言います。「主よ、なぜ今すぐついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(37節)。ペトロは、あなたのためには命を捨てます、というほど熱烈にイエスを尊敬し愛していたのですけれども、結局はイエスを裏切ってしまったのです。そして、イエスが十字架にかかられた後、復活の主がペトロに出会われたとき、彼は、十字架の死は人間を罪の縄目から解放し、赦そうとするイエスの徹底的な自己犠牲の愛であることを悟り、そこから全く新しい生き方が生まれたのでした。
主は弟子たちに、「子たちよ」と呼びかけます。こう呼びかけて、弟子たちへと向きを変え、彼らに別離を告げます。イエスは、弟子たちとの別離にあって「新しい掟」を与えると言います(34節)。それは「互いに愛し合いなさい」という掟です。「互いに」とは、相互的であり、愛が一方通行ではないことを表しています。愛は駆らず応答関係となり交わりとなります。その「愛」は、「私があなたがたを愛したように」(34節)です。
「新しい」というのは、これを始めて弟子たちに語るからではなく、愛はつねに創造的であり、日々刷新されるからです。愛は、自分自身から抜け出して、他者を私たちの生活の中心にするための方法をつねに探しています。
そして、「弟子であること」(35節)はイエスに従うことですけれども、新しい掟に生きることです。この掟の「新しさ」は、まさに、「私があなたがたを愛したように」という点に存します。「洗足」の例は顕著ですけれども、他にもイエスは、その全生涯にわたって愛の模範を示しておられますので、その愛に倣って、相互愛に励むことこそ、「新しい愛の掟」の実践になるわけです。
レビ記第19章18節は、「隣人愛」の重要さを記していますけれども、ここでの「隣人愛」はイスラエル共同体における「同胞」への愛です。主イエスは最も重要な掟(マルコ12:31)の一つとして取り上げていますけれども、「隣人愛」の対象と質は決定的に異なります。イエスは、「敵への愛」を述べ、御自分の十字架によって「民族の対立」、「敵見方という境界」を超える愛を示されたからです。
「あなたがたを愛したように」と言われたときの「ように」は、愛の程度や方法を示すだけでなく、互いに愛し合おうとする私たちに対する励ましであり、根拠を表すと思われます。主イエスの愛に目を向けるときに、自分の力を超えた力を受けるということなのでしょう。私たちは常に主にとらえられ、聖霊のいのちが私たちを生かすことを、そしてキリストの教会全体がより深くキリストの愛の力に押し出されて、出会っていく隣人を大切にしていきたいと思います。祈ります。