カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたを知る主イエス

    2022年5月1日
    エゼキエル書34:7~15、ヨハネによる福音書10:7~18
    関 伸子牧師

     「よくよく言っておく。私は羊の門である」(7節)。主イエスは再び、「確かに、確かに」と語気を強めて語ります。かつて、イエスは「私はいる(エゴー・エイミ)」と言う神の名前を用いて、ご自分が神の子であることを示しましたが、この節では具体的に「私は羊の門である」と語ります。羊の門というのは、牧者が羊をそこから出したり、また導き入れたりするところです。その門を通るから羊飼いであって、他から出入りするのは強盗です。この門を通って入る者だけがほんとうの羊飼いです。
     
     私が人からどんなに批判され、また自分自身つまらない者だと思ったとしても、その私が今あると言うことは、神の御心にかなう者として、イエスから召し集められた者だからです。私に資格があるのではなく、イエスの十字架の血にあがなわれて、神が立たせてくださっているのです。「私のようなものは」と言いたくなることがよくあります。私たちはそのような者にもかかわらず、救いにあずかり、神を信じる者とされているということが私たちの誇りであり、よりどころです。

     この後、対比が鮮やかに記されています。「良い羊飼い」に対して、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。–狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」。なんと恐ろしい言葉でしょう。いつ、なんどき、私たちも、この雇い人に転落するかもしれないからです。これは真の牧者を受け入れず、その牧する任務にあずかろうとしない宗教界のリーダーたち、具体的にはファリサイ派の人々や、もっと広く考えて、旧約時代のすべての偽預言者たちを指しているものと思われます。しかし、イエスの後も、いつの時代にも、こういう人たちがいて、「命を与える」イエスに逆らって、「命を滅ぼす」働きしかしないのです。真実なものの吟味に耐え得るように光を仰がなければなりません。

     12~13節はエゼキエル書第34章を思い出させます。紀元前6世紀のバビロン捕囚気の預言者エゼキエルは、神自身が牧者として、散らされた人々を集め、良い牧草地で養うと語り、一人の牧者が起こされることも預言しました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われています。良い羊飼いとして自分の羊を守るためには危険を冒しても自らの命を捨てる。これは明らかに、イエスの十字架刑を指しています。したがって、「良い羊飼い」の「良い」とは、他者のために存在することを示しています。「まことの良い羊飼い」、その死が羊に命を与える羊飼いは、ただイエス・キリストお一人です。また、罪を取り除くことのできる羊飼いはただお一人です。しかし、罪人である私たちも、それなりに「羊飼い」の務めを与えられることがあり、時には、羊のために死ぬことさえ求められることがあるのではないでしょうか。付加された第21章に、三度主を否認したペトロにイエスが「私の羊を飼いなさい」と言われています。そして、その後、ペトロは神の栄光のために命を捨てることになることが予告されています。これは牧師に限られたことではありません。キリスト者すべてに与えられていることではないでしょうか。

     「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」(14~15節)。良い羊飼いは、羊を愛して羊のために命を捨てるのですけれども、それは、羊は豊かに命を受けるためなのです。強調点は、明らかに、キリストの死が信じる者に命を与えるものであるところにあります。キリストの死は、キリストを信じる者が「豊かに命を受ける」ためのものです。しかし、その死は「世の罪を取り除く」(1:29)ためのものです。ヨハネはパウロほどに数多くの箇所でそのことを語るわけではありませんけれども、注意深く読めば、ヨハネは確かに語っています。

      「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(8:34~36)は、パウロが語る「罪の僕」の状態から自由にされ、神の子とされることと本質的な違いはないでしょう。

     信仰生活において、主イエスにあっての自分であるという信仰が大切だと思います。主イエスのゆえに信じる者とされており、今、キリストの証し人として立たされているのです。私たちの生きる根拠が常に主イエスにあることが大事です。羊の門と言われたのは、このことです。私たちは日々、過ちを犯し、イエスの恵みにあずかった者としてふさわしくないような言動をする者です。しかしなお、私たちはその中でイエスの慰め、励ましを与えられています。「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」。地上での命を、この主イエスの御言葉に従って、共に励まし合い、祈り合いながら歩んでいきたいと思います。祈ります。