カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私たちのために祈る主イエス

    2022年5月29日
    イザヤ書45:1~7、ヨハネによる福音書17:1~13
    関 伸子牧師

     今日、私たちが読むヨハネによる福音書第17章は、主イエスが告別の説教を終えて、最後に父なる神に祈る、大祭司の祈りと言われています。「イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた」(1節)。主イエスが残される弟子たちのために、十字架につけられる前に、神へのとりなしの祈りをされました。ここは、「イエスはその眼を天に上げて言われた」と直訳できます。この訳から主イエスが見つめている方向がはっきりと示されていることに気づかされます。眼は天の父に、心も父に、そして弟子たちに。弟子たちを通して世に。

     「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子に栄光を現わしてください」。主イエスは栄光を現わす時だと言われました。私たちはこの十字架を栄光と思っているでしょうか。できれば避けて通りたい、十字架は小さいほうがよいと考えがちです。もし、キリスト者は十字架を負うためにあると言われたら、引いてしまうのではないかと思います。けれども、具体的に十字架を負うところに私たちの目標があります。その十字架はゆるされたという喜びから来る、従っていく十字架です。

     では、十字架を負うとは何でしょう。この祈りから二つのことが言えると思います。第一は、ひとつになること。気の合った者同士がひとつになることはやさしいことですけれども、意見の合わない者がひとつになるには自分が十字架を負わなければなりません。私が私であり続けたらひとつになることはできません。

     もう一つは、イエスが「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることです」と祈っておられることです。主イエスは、この世から出るのではなく、むしろこの世の中に生き、そこで神に守っていただくことが私の願いである、と祈ってくださっています。

     私たちはこの世で、一人で闘っているのではありません。どんな苦しみを背負ったときでも、主イエスが私たちのためにとりなしの祈りをしてくださることを忘れてはなりません。そう思うときに、この祈りは私たちに無限の勇気と慰めを与えてくれます。

     主イエスは、十字架の死において神の栄光が現わされることを示しています。「十字架の死」と「復活」において神の栄光があらわされるのです。もう一つ注目したい言葉は、子の栄光によって弟子たちにもたらされる「永遠の命」です。イエスに与えられた「すべての人を支配する権能」は、「永遠の命を与える」(2節)権能です。そして「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)とある御言葉の中の「知る」という語の重みを感じざるを得ません。これは聖書的な意味で知ることであって、体験して、生きることです。つまり、永遠の命とは、御父ならびに御子との交わりを持つことです。そして、このことが実現するために真理の霊、命の霊である聖霊の力添えが必要なのです。

     私たちの救いに関して、神も御子も聖霊も決して単独行動はしません。各自の役割を果たし、相互の役割を尊重しつつ、しかも協力し合う、完全なチームワークをしています。

     イエスの弟子たちは、神のもので、御子に与えられた者だとイエスは言われます(7,8,9節)。しかも、「私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです」(10節)という関係が成立しています。イエスの直弟子たちが「御言葉を守り」(6節)、イエスが御父から遣わされた事実を「知り」、そして「信じる」(7,8節)に至ったのは、イエスの復活後、聖霊を受けたときでしたが、ここではすでに実現したこととして、過去形で書かれています。「私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」(12節)という言葉も、具体的に「園での出来事」(18:9)を指しているとすれば、これは未来の先取りになりますし、「人々の復活(6:39)を指しているとすれば、内容的には未来の先取り、テキスト上は過去に言われたことの再確認ということになります。いずれにしても、イエスのこの祈りの時間を超越した現実性をよく示している例です。

     弟子たちは、イエスがそうであられるように、世の中にある者ですけれども、世に属する者ではありません。世から逃避することなく、しかも世に染まらず、世の中に身を置いて、世を救うという困難な使命が弟子たちは課されています。主イエスに従う私たちが、イエス・キリストの十字架を通して罪赦され、神のものとされ、さらに神の恵みと真理が私たちを生かし、私たちのなかに浸透する。そして、神のめぐみと真理のうちに歩み続けることができるのです。この幸いに感謝し、心に喜びをもって共に歩んでいきましょう。