カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 霊が語らせるままに

    2022年6月5日
    ヨエル書2:23~3:2、使徒言行録2:1~13
    関 伸子牧師

     今日、私たちはペンテコステ礼拝をささげています。「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1~3)。

     これはただ「来て」ではなく、「満ちて」というカイロス(決定的な時)の到来としての描写です。使徒たちは、50日が満ちるまで、毎日毎日を真剣に生き抜いたのです。「皆が同じ場所に集まっていると」、これはおそらくあの「屋上の間」のあった家(「家の上の階」(1:13)でしょう。そこにはイエスに躓きながらも従ってきたガリラヤ人たちが居住していたのでしょう。「皆」の数は不明ですけれども、少なくとも11弟子とイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちがいたに違いありません。集まって、「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(1:14)のでしょう。主イエスが十字架につけられ、復活されてから50日目、神のご計画があって、弟子たちは聖霊を受けたのです。

     聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からです。家中に響く風のような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。その結果、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」(4節)のです。「霊が語らせるままに」、直訳的は「霊が語りを与えるにしたがって」。この語りは荘重に宣言するような言葉を意味します。「教会」、キリストのからだである教会は、人間が基礎づけることはできません。教会をお建てになるのは、聖霊なる神のみです。それゆえ、使徒信条では、教会は、聖霊の項に入っています。

     私たちにとって神の国はすでに来たものであり、五旬祭も同じく来たのです。聖霊は既に注がれています。そこで私たちの責任があらためて問われます。聖霊が注がれているのに、それを受けていないとすれば、それはみんなが一緒に集まって、約束を信じて待ち望むことが欠けているのかもしれません。私たちの努力と関係なく既に五旬祭は来たのです。だから、私たちには、一緒に集まって霊が注がれるのを祈って待つことが大切なのです。

     私たちのために一人子を十字架につけてくださった神に期待していく、このお方によって私の心は満たされているという状態には、人から理屈で説明されてもなれるものではありません。霊が注がれるとき、はじめてそれはわかることなのです。この時聖霊は、炎のように、しかも分かれて一人ひとりの上にとどまったのです。

     では、聖霊とは何でしょう。神の力、いや、私たちの中に働く神ご自身です。私たちを内側から動かす力です。それなしに、私たちは何をすることもできません。それは、どこからいただくのでしょうか。ただ聖霊なる神ご自身からです。だから、祈らなくてはならないのです。

     聖霊の言葉は、まるでみな自分の国の言葉を聞いているようでした。その人たちが「自分の故郷の言葉」で話されるのを聞くのでした。その内容は、「神の偉大な業」であり、イエスの「十字架と復活による救い」です。「驚き」は、あるべき場所から移されたという意味で、そこから、我を失ったというほどの驚きを意味します。「皆ガリラヤ人ではないか」ということばの中には、単に異なった地方の人という意味だけではなく、「異邦人ガリラヤ」という風評や軽蔑の意味が全くないわけではないことを記憶すべきでしょう。

     ガリラヤ人たちが持っていたのは、ただ、自分自身の言葉でした。漁師や大工の、貧しいけれども、自分の言葉でした。そして、この卑しき者をかえりみてくださった神の大きな働きを、神の勝利を、自分の言葉で語っただけです。イエスの誤解と裏切り、そして十字架において示された愛、復活の力と新生の霊の約束。その一つ一つを、痛いまでに体に刻みつけられた、素朴な恵みの事実を、口ごもりながら、「霊が語らせるままに」語ったに過ぎなかったのです。

     しかし、それで十分なのです。皆が自分の生まれ故郷の言葉のように聞き、あっけにとられ、驚き怪しんだ。しかしそれで十分なのでした。驚きと躓きなくして、十字架における神の勝利を信じることはあり得ないのだから。このようにしてガリラヤ人の言葉が、宣教に必要な言葉であることが明らかになりました。

    聖霊は私たちにも与えられています。そのためにはたった一つのことが必要です。真の慰め主である、力の主を優先すること、神を仰ぐことです。静かに待ち、聖霊の御支配に委ねることが大切です。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(出エジプト14:14)。しかし、彼らはついに立ち上がりました。ただ神が働き、神が命じる時、立ち上がりました。私たちはどのような時にも、共に居合わせ、祈りつつ、聖霊を注がれ、それぞれの言葉で主を証しする者として歩みたいと願います。祈ります。