カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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  • 人を見る目を与えられる

    2022年7月24日
    列王記上10:1~13、マルコによる福音書8:22~26
    関 伸子牧師

     東小金井教会が最初の礼拝をささげてから58年経ち、今日もここで礼拝をささげることができる恵みを感謝します。私たちは真理を悟るとき、開眼したと言います。主イエスの真理に目が開かれたら、私たちの目はどこに注がれるのでしょう。それは神の真理です。

     マルコ福音書の今日の箇所は、「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」(マルコ8:22)と書き始めます。この書き出しに、取り立てて印象的なところがある訳ではありませんけれども、この盲人の周りに人々の善意の輪ができていたことを示しています。

     人の手から主イエスの手へと、盲人の手引きがされる。この時にはイエスの周辺にはいつものように大勢の人がいたと考えられますから、その中には好奇の目もあったかもしれません。そうした視線から盲人を切り離すために、イエスは彼を村の外に連れて行きました。なぜか。それは、このいやしが、愛のわざであり、見世物ではないからです。イエスは、その不思議な御業をいつも隠れてなさいます。そしていやしが始まります。目の不自由な人は、人一倍触覚が発達しています。これは、神様が不思議なご配慮をしてくださっているためにほかなりません。

     私たちは、もっと見えるようになりたい、聴こえるようになりたい、言葉を身につけたいと願いますけれども、何を見たいのか、何を聴きたいのか、どんな言葉を発したいのか、そこまでは突き詰めていないと思います。それはむしろ見え出して、聴き出して、言葉を口にして初めて求めるものなのではないか。ヘレン・ケラーがまさにそうでした。1歳半の時の病気がもとで、見えない、聴こえない、しゃべれないという三重苦を背負うことになったヘレンは、水によって言葉に開眼しますが、そこで初めて、自分をペットのように甘やかすのではなく、厳しく愛し、言葉を伝えようとし続けてきた人の名前「先生(ティーチャー)」を求めました。ヘレンにとって、一番の隣人であったのは、母親ではなく、家族の反発を身に引き受け、ヘレンからさえ煙たがられながらも、言葉を伝えようとしたサリヴァン、その人であったという発見です。

     主イエスがその人に「あなたは何かを見ているのか」と尋ねると、盲人は「見上げて」言いました。イエスはこの人をいやす時、天を見上げて父なる神にその人の苦境を訴え、父なる神の業に倣ったように、この人もイエスと同様に天を見上げると、「人々」と「木々」(直訳)のようなものを目にしました。ここで、この人が見ている「人々」も「木々」も複数形です。

     その光景とは、父なる神が天地創造の最後に人々を造った時の光景であることを想像します。神は最初の人を造った後に、その人をエデンの園に置き、その園には木々を生い茂らせました(創世記1:27、29、2:7~9)。そして、その後に神はその人から女を造りました。こうして、この二人は木々の生い茂るエデンの園で暮らしていたのです。この人が最初に見たものは、人間の罪に染まったこの世ではなく、罪のない天の王国を映し出したものなのです。そして、人は誰でも最終的に十字架という一本の「木」に掛けられた一人の「人」であるイエスを見上げて、そこから永遠の命の喜びを与えられる必要があります。

     イエスが次に見せたものは村の光景です。この世を見せたのです。主イエスはここで、一つひとつ丁寧にこの人に接していることがわかります。目の見えない人のために、わざわざ唾をつけました。それを目につけて、さらに手を二度もおいていやしを行います。主の手に触れられて初めて、すべてのものが何でもはっきりみえるようになります。開眼するのです。しかしキリストによって眼を開かれることは、一個人の悟りや境地に立ち止まるようなものではありません。主に従い歩む群れ(教会)に加えられていくという、動きのあるものです。

     主は、「『村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」(26節)。イエスがその人をその人の家に帰したのは、その家の人々に対して証しをさせるためです。まずは自分の家で自分の身に起こった神の業を証しすることを求めたのです。

     私たちは、十字架の道を歩む弟子たちの群れの姿を思わずにはいられません。弟子たちは最後まで主の道行きを理解できません。しかし、主の十字架とご復活によって弟子たちは開眼します。自分たちが何を求めて歩んでいるのか。ヘレン・ケラーが、母親よりもサリヴァンを求めて、その腕に飛び込んで行ったように、弟子たちも、主を求め、主の名をを説く歩みを始めるのです。

     私たちの群れは歩いている群です。どこへ向かってかといえば、キリストを目指し、キリストの後に従い歩む群れです。疑う者ではなく、信じる者の群れです。見る目を主イエスから与えられることを心より願います。そして、イエス・キリストに必要とされる時に、主イエスにとって有用な者でありたいと思います。お祈りいたします。